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伴 勇資(ばん ゆうじ、1923年5月20日 - 2003年7月29日〔伴勇資氏死去 元国士舘大教授 47NEWS、2003年7月30日記事。〕)は、福岡県出身のプロ野球選手(捕手、三塁手)。野球監督。 == 来歴・人物 == 福岡工業(現・福岡県立福岡工業高等学校)在学中には、甲子園に2回(春1回〈1940年〉、夏1回〈1940年〉)出場〔出身校・都道府県別プロ野球選手リスト(西日本編) 〕。1940年春の大会ではベスト4まで進出した。福岡工時代のチームメイトに、上野義秋,大崎憲司,千頭久米夫(いずれも後に、西日本鉄道硬式野球部及び西鉄でもチームメイトになる。)がいる。 福岡工業卒業後は、早稲田大学に進学した。早大でも正捕手の座を掴み、10月16日に開催された出陣学徒壮行早慶戦(世に言う「最後の早慶戦」)でも「2番・捕手」で先発出場している。早大卒業後、西日本鉄道硬式野球部に所属。の第19回都市対抗野球大会では、捕手としてチームの優勝に貢献。この時のチームメイトには、先述の上野,大崎,千頭の他に、武末悉昌投手・宮崎要監督兼二塁手・深見安博三塁手・塚本悦郎中堅手がおり、後に西鉄の草創期を形成するメンバーとなった。 にこの年新設された西鉄クリッパースに入団。しかしプロでは、楠協郎,広田順の壁を破ることはできず、控え捕手の座に甘んじた。捕手登録だったが、に三塁手として1試合出場している。に東急フライヤーズ、そしてに大映スターズに移籍し、1954年限りで現役引退した。 引退後は、アマチュア野球の指導者に転身した。まず柳川商業の監督に就任し、同校を1963年夏の甲子園へ甲子園初出場に導いた。次いで国士舘大学硬式野球部の第2代監督に就任〔各部の部長、監督(国士舘ちゃんねる - したらば掲示板) 〕。硬式野球部の監督と平行して、1970年代~1990年代初頭にかけて、「保健体育講義」の講師も勤めていた〔。 2003年7月29日午後11時55分、脳梗塞のため東京都八王子市の病院で死去〔。。 D-BOYS(ワタナベエンターテインメントに所属する若手男性俳優集団)の舞台「ラストゲーム〜最後の早慶戦〜」では彼をモデルにした伴東勇介(ポジションは捕手)なる人物が登場し、2008年の初演では中村昌也,2010年の再演では中川真吾が彼の役を演じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伴勇資」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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