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伴 成益(とも の なります、延暦8年(789年) - 仁寿2年2月10日(852年3月4日))は、平安時代前期の貴族。参議・大伴弟麻呂の孫。従五位上・伴宇治人の子。官位は従四位下・左中弁。 == 経歴 == 若くして大学に入学して文章を学び、進士試に及第する。弘仁14年(823年)左京少進に任ぜられたのち、式部少丞・右京少進を経て、天長9年(832年)従五位下に叙せられる。 仁明朝に入ると、大蔵少輔・同大輔を務める一方、承和3年(836年)右少弁、承和7年(840年)従五位上・右中弁、承和9年(842年)正五位下、承和11年(844年)左中弁、承和12年(845年)従四位下に叙任されるなど、弁官を兼帯して順調に昇進した。 しかし、承和12年(845年)に法隆寺の僧侶・善愷が同寺の壇越である少納言・登美直名を告訴し、弁官による審理の結果直名を遠流とした訴訟事件が発生する。その訴訟の取り扱いを巡って、翌承和13年(846年)に右少弁・伴善男と左大史・伴良田宗がこの訴訟の審理を行った5名の弁官を弾劾した。具体的な成益の罪状としては、善愷が提出した訴状を僧綱・治部省を経由せずに弁官が直接受理したが、これは慣例ではあったものの本来手続違反であり、その後に出た当該の慣例は不適切であるとした上官の判断を成益は敢えて無視し、訴状を本来の正しい部署(僧綱)へ移送しなかった事があげられている。結局この弾劾は認められ、成益は他の弁官とともに私罪にあたるとして解官の上贖銅10斤を課された(善愷訴訟事件)。承和14年(847年)には弾劾された4人の元弁官とともに位記を1階分破毀され、翌嘉祥元年12月(849年1月)にはさらに位階を1等降格した上で従五位上に再叙された。 嘉祥3年(850年)従四位上・丹波権守に叙任されるが、丹波国赴任中は国内は粛然とし、国人は成益の清廉潔白さを賞賛したという〔『日本文徳天皇実録』仁寿2年2月10日条〕。仁寿2年(852年)2月10日死去。享年64。最終官位は従四位下行丹波権守。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伴成益」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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