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丹波 奉親(たんばのともちか、生没年不詳)は平安時代中期の官人。丹波行衡の子。但波とも表記される〔奉親は本来、「丹波宿禰」であったが父である丹波行衡の時代に「但波朝臣」に改姓したことが『権記』長保元年12月15日条より知られる。〕。 == 経歴 == 藤原道長の家司を務め、長徳2年(996年)から長保3年(1001年)まで豊後守を務めていたことが知られている。寛弘7年(1010年)に従五位上に叙されている。寛弘8年(1011年)、長期にわたって左大史を務めていた小槻奉親が突然出家する事件が発生し、道長はその後任に丹波奉親を就けようと画策して、その任に相応しくないとしてこれに反対する藤原実資・行成と対立するが、道長は最終的に小槻奉親の後任である伴久永に理由を付けて更迭して源俊賢の推挙と言う形を取って丹波奉親を任じた〔『小右記』寛弘8年2月4日条・『権記』寛弘8年12月18日条〕。 ところが、長く左大史を務めていた小槻奉親は公務に使った公文書(「官文書」)を自宅に持ち帰っていた。当時、官文書の持ち出しは法的には禁止されていたが、実際には公卿・官人の多くが行っていた行為であったため、小槻奉親の行為を咎めることも返還をさせることもできなかった。この事態に苦慮した道長は長和2年(1013年)に奉親を官文殿預に任じて官文書の流出を防がせ、同4年8月1日(1015年9月16日)には史の勤務評価に官文殿における官文書の保管を加える宣旨を出させている。丹波奉親は治安3年(1023年)まで左大史の地位にあったが、寛仁元年(1017年)の後一条天皇の賀茂行幸の際に官文殿内の文書不足から上卿藤原実資が満足の行く回答を出すことが出来ず、小槻奉親の子である右大史小槻貞行に父親が保管していた一条天皇時代の賀茂行幸の文書を提出させた〔『小右記』寛仁元年7月9日条〕。やがて、摂政である藤原頼通は丹波奉親を擁護する父・道長の反対を押し切って、小槻貞行を左大史に昇進させて2人体制を取ること〔『後二条師通記』寛治6年2月18日条〕になり、後の小槻氏による左大史世襲(官務の成立)への道を開くことになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「丹波奉親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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