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住乃江 田鶴子(すみのえ たづこ、1908年1月18日 - 没年不詳)は、日本の女優である〔キネマ旬報社, p.382.〕〔映画世界社, p.158.〕〔''住乃江田鶴子''、''jlogos.com'', エア、2013年5月7日閲覧。〕〔''住之江田鶴子''、日本映画データベース、2013年5月7日閲覧。〕〔''住乃江田鶴子''、''住の江田鶴子''、''住ノ江田鶴子''、''住江田鶴子''、''住之江田鶴子''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月7日閲覧。〕〔''住之江田鶴子''、KINENOTE, 2013年5月7日閲覧。〕〔''住之江田鶴子''、allcinema, 2013年5月7日閲覧。〕〔''住乃江田鶴子''、''住之江田鶴子''、''住ノ江田鶴子''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月7日閲覧。〕。本名柿畑 田鶴子(かきはた たづこ)〔〔。芸名の表記は住之江 田鶴子、住ノ江 田づ子、住の江 田鶴子、住ノ江 田鶴子、住江 たづ子、住江 田鶴子と揺れがみられる〔〔。KINENOTEおよびallcinemaに記載される読み「すみのえだ つるこ」〔〔は誤り〔〔。 == 人物・来歴 == 1908年(明治41年)1月18日、京都府京都市に生まれる〔〔。 旧制小学校を卒業し、祇園で舞妓となったのちに、牧野省三のマキノ・プロダクションに父が勤務する縁で同社御室撮影所に入社、1926年(大正15年)10月1日に公開された『どんどろ堀』(監督二川文太郎)で主演の杉狂児の妻役に抜擢され、満18歳で女優としてデビューする〔〔。このときのクレジットは「住江 たづ子」(すみのえ たづこ)であった〔〔、2013年5月7日閲覧。〕。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、住乃江は、マキノ智子、松浦築枝、岡島艶子、大林梅子、桜木梅子、生野初子、河上君栄、三保松子、泉清子、都賀静子らとともに「俳優部女優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月7日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)2月28日に公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象)を最後に退社している〔〔。 同年、東亜キネマに移籍し、『豪侠十文字』(監督堀江源太郎のちの堀江大生)に出演、羅門光三郎の相手役として主演しており、同作は同年5月15日に公開された〔〔。1932年(昭和7年)になると同社の経営は悪化し、同社の製作代行会社東活映画が設立されると同社に継続的に入社、『南地囃子』(監督久保義郎)に出演、武村新の相手役として主演、同作は同年1月8日に公開されたが、同社は同年10月に解散している〔〔。1934年(昭和9年)には興国キネマが製作した『魔刃紅蜥蝪』(監督仁科熊彦)に出演、1936年(昭和11年)には極東映画に移籍、同年9月13日に公開された『颯爽桂小五郎』(監督山口哲平)に出演したが、1937年(昭和12年)2月20日に公開された、住乃江にとっての初めてのトーキー『閻魔寺の幽霊』(監督山口哲平)に出演した、満29歳以降の出演歴がみあたらない〔〔。やがて時代は第二次世界大戦に突入、以降の消息は不明である〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「住乃江田鶴子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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