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佐々 平左衛門(さっさ へいざえもん)、享禄2年(1529年) - 天正16年(1588年)は、戦国時代の武将。木舟城主、後に龍ヶ峰城主も兼ねる。実名は「政元」。 == 生涯 == 元々は武士の出自ではなく、後に成政に起用され佐々の姓を名乗って織田信長に仕えた。佐々成政の姉方の叔父に当たる。『武功夜話』によれば、丹羽氏次の子で初名は平太といい、成政の叔父宗長の養子になったというが疑問が多い。 天正8年(1580年)7月、越後上杉氏の家臣・吉江宗信が織田勢によって木舟城を追われると、代わってその城主となる。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは、上杉氏と対陣中のため、越中を離れられなかった成政に代わり、兵600を率いて柴田勝家軍へ援軍として赴いている。 柴田勝家の敗死後、羽柴秀吉方となった前田利家との関係が悪化すると対前田氏との緒戦に参加する。 天正12年(1584年)、末森城合戦に参加。 同年、加賀・龍ヶ峰城を守備するが前田秀継に攻め落とされている。 天正13年(1585年)、前田秀継の守る今石動城を攻め、近隣を放火するなどしたが前田安勝らの援軍が到着すると、撃退されている。その後、秀吉が諸大名を従えて本格的に佐々攻めを開始(富山の役)すると、木舟城を守るも城を落とされている。 後、成政が肥後へ転封となるとこれに従ったが、肥後国人一揆の責任を問われて成政が自害すると、彼も殉死したという。しかし、その後加藤清正に仕えたともいう。〔『越登賀三州志』〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々平左衛門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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