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佐々木 勇人(ささき はやと、1982年11月29日 - )は、宮城県塩竈市出身のプロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 == 来歴 == 塩竈市の塩釜FCでジュニアユースの監督をしていた父親に育てられ、ジュニアからユースまで同クラブで育つ〔 - Jリーグ選手協会(2008年3月1日)〕。ジュニア時代だった1993年には、カカを擁するサンパウロFC下部組織と試合をした経験を持つ〔。ユース時代に宮城県選抜に選ばれており、この県選抜時代にはのちにチームメイトとなる今野泰幸と共にプレーしている。 2001年に大阪学院大学へと進学する。同校の1年後輩に石櫃洋祐がおり、現在でも仲が良い。サッカーを始めた頃からプロ入りまでは、ずっとトップ下(いわゆる司令塔)のポジションを務めた〔。プロ入り前に故郷のベガルタ仙台に練習生として参加したが、契約には到らず。その後、同じ東北のライバルクラブであるモンテディオ山形へと入団した。本人はこの時の挫折をバネにしたことで、後に山形で活躍することができたと語っている。 2005年、J2の山形に入団。1シーズン目からレギュラーとして活躍。開幕戦から先発出場を果たし、初得点を挙げた。第7節には約60メートルのロングシュートを決めた。鈴木淳、樋口靖洋両監督に右サイドハーフとして起用され、3シーズンでJ2リーグ戦119試合に出場し、山形の攻撃陣の一角を担った。2007年11月7日の天皇杯4回戦でガンバ大阪と対戦。チームはPK戦で敗れたが、G大阪監督の西野朗にその活躍ぶりを見初められ、翌年のG大阪への移籍に繋がった〔。 2008年、山形からJ1のG大阪へ完全移籍。開幕戦はチーム事情から右サイドバックとして先発出場したものの、その後はしばらく出番に恵まれない時期が続いた。7月16日のFC東京戦では、後半開始から投入されたが機会を生かせず、後半35分に途中交代させられた。この日は悔しくて眠れなかったと語っている〔。結果的にはこの試合が転機となって、それ以降は自らの持ち味であるスピード感溢れるドリブルを前面に押し出すようになり、それが奏功して出場機会を増やしていった〔『GAMBA OSAKA 2009 OFFICIAL YEAR BOOK』 ガンバ大阪、2009年、22頁。〕〔『2008 Jリーグ総集編』 日本スポーツ企画出版社、2008年、66頁。〕〔『2009 J1&J2選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2009年、68頁。〕〔。初めてJ1の舞台で戦ったこの年はリーグ戦19試合に出場した。ACL2008準決勝浦和レッズ戦の2ndレグでは、1点ビハインドの後半に投入され、逆転勝ちに貢献した〔〔。アデレード・ユナイテッドとの決勝では、両レグに先発出場した。FIFAクラブワールドカップ準々決勝のアデレード・ユナイテッド戦にも先発出場したが、全治3週間の怪我を負い、19分間でピッチを退いた。 2009年は、第2節から主にスーパーサブとして活躍。第8節からは大胆なフォーメーション変更で控えとなった安田理大の代わりに中盤のスターティングメンバーで起用される機会が増え、結局リーグ戦30試合に出場して存在感を示した。翌2010年以降も、主にスーパーサブとしてチームに貢献した。 2013年、ベガルタ仙台へ完全移籍。2014年シーズン終了をもって契約満了により仙台を退団。 2015年に京都サンガF.C.へ移籍したが、シーズンオフの11月に契約満了で退団した。2016年より栃木SCに完全移籍により加入した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木勇人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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