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佐々木 惣一(ささき そういち、1878年(明治11年)3月28日 - 1965年(昭和40年)8月4日)は、日本の憲法学者、行政法学者。正三位勲一等。法学博士。貴族院議員。京都大学名誉教授。立命館大学学長。京都市名誉市民。 == 概要 == 鳥取市西町に生まれる〔『鳥取県大百科事典』363頁〕〔三浦百重(鳥取大学学長、鳥取市名誉市民)によれば、「先生は明治十一年三月鳥取市西町十一番地に生まれたとその履歴書(注・京都市作製)にはなっているが、この点は、私の聞いた限りでも巷間諸説があり、中には近郊の生まれで幼時両親に伴われて鳥取市に移り、その後も数次居を転じた為め諸説が生じたのであると云う人もある。いま之を明らかにする途はないが狩野教授が佐々木先生から直接依頼されて作った“夢松菴記”のうちに…教授(注・佐々木先生)曰吾郷有山曰久松其麓吾幼時居也…(注・吉川教授編―君山文巻五)とあることによっても、郷里は鳥取市としてよいであろう。」という(『鳥取県百傑伝』、224頁))〕。県尋常中(現鳥取西高)、四高を経て京都帝大に法学を学び1903年(明治36年)卒業、直ちに同大学の講師、次いで1906年に助教授、1913年に教授となり、行政法を講じた〔。さらに、1927年からは退官した市村光恵に代わって憲法も担当するようになった。行政法における師匠は織田萬であり〔佐々木惣一「織田萬博士の追憶」(公法研究一八号)〕、憲法における師匠は井上密である〔佐々木惣一の立憲主義論と自由主義思想の展開 〕。1921年(大正10年)以来二回法学部長に挙げらる〔『第廿一版 人事興信録 上』昭和36年(1961年)さ一三〕、。 厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍し、弟子の大石義雄とともに憲法学における京都学派を築いた〔人物紹介 | 日本国憲法の誕生 〕。1933年(昭和8年)「滝川事件」に抗議して辞職〔。同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動するなど、大学自治の擁護に努めた〔。 1945年(昭和20年)には内大臣府御用掛として憲法改正調査に当たり、いわゆる「佐々木憲法草案」を作成している〔。 その後は、貴族院における日本国憲法の改正審議に参画し、日本国憲法への改正に反対した。〔松尾尊兌「敗戦前後の佐々木惣一 ―近衛文麿との関係を中心に―」(『人文学報』98号、2009年)〕
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