|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 佐 : [さ] 【名詞】 1. help ・ 々 : [くりかえし] (n) repetition of kanji (sometimes voiced) ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber ・ 雄 : [おす] 【名詞】 1. male (animal)
佐々木 武雄(ささき たけお, 1905年3月7日 - 1986年3月20日〔『日本陸海軍総合事典』では昭和60年(1985年)没〕)は、日本の陸軍軍人。最終階級は予備役大尉〔#秦昭和史下 p.107〕。 1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて日本の降伏に際して発生し未遂に終わった宮城事件に呼応し、出身校である横浜工業専門学校の有志らを募って、首相官邸と時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の私邸などを相次いで焼き討ちにする事件を起こした。事件後は憲兵などの目をかいくぐる逃亡生活を行った末、比較的早い時期に大山 量士(おおやま かずひと)として世に現れる。改名後は「亜細亜友之会」を立ち上げて事務局長および理事長として活躍し、アジア出身の留学生から「オヤジ」として慕われた〔#秦昭和史下 p.125〕。 == 生涯 == === 前半生 === 佐々木武雄は1905年に、北海道小樽に生まれる。横浜高等工業学校建築科の第一回生であり、在学中は応援団団長や講演部委員長として活躍した。卒業の頃、佐々木は安部磯雄、片山哲、赤松克麿らの思想に共鳴し、社会民衆党に入党。その後、日本国家社会党の結成に参加し、1934年に同党が愛国政治同盟と改称されると、佐々木はその青年部を担当した〔#大山 pp.24〕。その頃には、大川周明、石原莞爾らとも交流関係を持っており、行動右翼の一人として横浜周辺では名が知れた人物であった〔#秦昭和史下 p.105〕。 1937年7月、支那事変の勃発とほぼ同時に佐々木は応召、旭川工兵第7大隊に入隊し、北支戦線に派遣され小隊長となる。1941年9月には再び応召し、北千島の幌筵島に北千島要塞工兵隊長として派遣された。太平洋戦争開戦の12月8日頃に大尉に昇進、その後、北部軍司令部付となる。1942年の暮には再度横浜に戻った〔#大山 p.25〕。 私生活では、1944年4月、母校の初代校長鈴木達治(煙洲)の養女と結婚し、その姻族となっている〔。佐々木は結婚後間もなく、1944年7月に3度めの召集を受け、豊橋の航空基地設定練習部に入隊し、その後台湾へ派遣される。1945年1月に帰還すると、犬山の航空基地設定練習部の教育隊中隊長となった。7月からは、1945年6月に編成されたばかりの東京防衛軍警備第3旅団に転勤となり〔、横浜鶴見に所在した旅団司令部残務整理員並農耕隊からなる大隊の指揮官となった〔〔〔#大山 pp.26-27〕。一方で、横浜では横浜工業専門学校の生徒を中心に、鈴木達治を会長とした「必勝懇談会」を結成し〔、戦意高揚のために盛んな講演活動を行った。後に「必勝懇談会」の有志が佐々木とともに、終戦前後に一瞬とはいえ大いに暴れまわることとなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木武雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|