|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 佐 : [さ] 【名詞】 1. help ・ 々 : [くりかえし] (n) repetition of kanji (sometimes voiced) ・ 木 : [き] 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber ・ 氏 : [うじ] 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth
六角 氏頼(ろっかく うじより)は、南北朝時代の武将、守護大名。六角時信の嫡男。 == 生涯 == 佐々木氏嫡流の六角氏は鎌倉幕府滅亡と共に一時没落し、幕府滅亡時の当主であった父が出家したため、氏頼は建武2年(1335年)頃に幼くして家督と近江守護職を継承して当主となるも、室町幕府では庶流の京極氏の風下に立つことになった。近江守護職をめぐり京極氏の佐々木道誉と一時争うも、道誉の娘を妻に娶るなど関係改善にも努めている。暦応元年/延元3年(1338年)、南朝の北畠顕家軍が青野原の戦いで幕府軍を破った事態を受けて、道誉と共に援軍として派遣され近江・美濃の国境で南朝軍を迎え撃ち、康永3年/興国5年(1344年)には検非違使に任じられるなど佐々木氏嫡流としての立場を示した。その間、1338年11月5日には室町幕府初代将軍足利尊氏の加冠によって元服し、「氏」の偏諱を受けて氏頼と名乗り、同時に左衛門佐に任ぜられ、従五位下に叙された〔『瑞石歴代雑記』に「(暦應元年)十一月十五日、江州觀音寺城主、佐々木六角近江守、従五位時信嫡男、母長井宮内少輔時守女也、歳十三、元服、加冠尊氏公、乃賜諱字號氏頼、且賜太刀鎧等、依有永補綸旨、卽日任左衛門佐、敍從五位下、」〔原文ママ〕とある(『大日本史料』6-32、P.122)。「徳源院本 佐々木系図」では氏頼の元服を建武元年(1334年)3月5日(当時9歳)とする(『大日本史料』6-32、P.121)が、佐々木哲は前者を採用している(大夫判官氏頼(入道崇永)- 佐々木哲のブログ記事 )。〕。 足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱では道誉と共に尊氏・高師直派に属していたが、観応2年/正平6年(1351年)1月19日に尊氏の弟直義派が有利となると直義方に降る。しかし、師直が殺害された後も両派の対立が再燃、双方から味方に誘われ窮地に陥り、6月25日に出家して崇永と名乗り、近江守護を辞任して家督も長男の義信に譲った。この後、近江守護に弟の山内信詮(定詮)・直綱や義信が選ばれたり、道誉が尊氏の嫡男義詮から佐々木氏の惣領格に任命されている。 文和3年/正平9年(1354年)には政界復帰し、義信に代わって近江守護に復したほか、応安元年/正平23年(1368年)には禅律方・引付頭人も務めている。近江守護再任後は禅宗に帰依し、康安元年/正平16年(1361年)に寂室元光を招いて永源寺の開基となった。 しかし、家督は正平20年/貞治4年1365年に嫡男の義信が17歳で夭折〔このとき次男・亀寿丸(のちの満高)は生後まもなくだったという説がある。〕、京極氏から道誉の孫で嫡男の高経を猶子に迎え後見を務めた。 応安3年/正平25年(1370年)6月7日、45歳で死去〔『後愚昧記』・『常楽記』同日条、『空華日用工夫略記』同月二十四日条、『瑞石歴代雑記』。〕。近江守護は高経が引き継いだが、氏頼晩年に生まれた亀寿丸が元服して六角満高となると、近江守を解かれて京極家に戻された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「六角氏頼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|