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佐々 紅華(さっさ こうか、1886年7月15日 - 1961年1月18日)は、日本の作曲家である〔''佐々紅華''、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2015年9月4日閲覧。〕〔''佐々紅華''、20世紀日本人名事典、コトバンク、2015年9月4日閲覧。〕〔寄居駅 浅草オペラ先導者の邸宅 、朝日新聞、2015年6月4日付、2015年9月4日閲覧。〕。本名は佐々 一郎(さっさ いちろう)〔〔。作詞も行なった作品があり、歌劇の台本も書き〔、グラフィックデザイナーでもあった。 == 人物・来歴 == 1886年(明治19年)7月15日、東京府東京市下谷区根岸(現在の東京都台東区根岸)に生まれた〔〔。紅華が4歳の時、一家で横浜市に転居、旧制・横浜小学校(1946年統合廃校)、旧制・神奈川第一中学校(現在の神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、浅草区蔵前にあった旧制・東京高等工業学校(現在の東京工業大学)工業図案科に進学した〔〔〔。同校の工業図案科は、1914年(大正3年)に廃止され、空白期ののち1921年(大正10年)に創立された東京高等工芸学校を経て、現在の千葉大学工学部デザイン学科に引き継がれた学科である〔近代デザイン史に残る足跡 、東京工業大学、2015年9月4日閲覧。〕。小学校時代からの音楽好きが嵩じてはじめは東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を受験したが、試験には受かったものの父親の意見で高工に行ったのだという。しかし、この時期の自身について紅華が晩年に地元紙に書いた、七代目松本幸四郎(1870年 - 1949年)についての記事がある。 高工を卒業すると東京市内の印刷会社に就職、音楽への思いを断ち切れずにいたが、次に務めた日本蓄音器商会(ニッポノホン、現在の日本コロンビア)では図案室に入り、当時ビクターの商標であった、犬が蓄音器に耳を傾ける図案(ニッパー)に対抗し、耳に手をかざして蓄音器に聞き入る大仏のマークを作成、当時「大仏はそんなに耳が遠いのか」との評判が立ったという。これは日本蓄音器商会の商標となった。またレコードのポスター等のグラフィックデザイナーとしても頭角を現していった。音楽の面では、当時の雑誌の記事などを見ると、日本蓄音器商会の事務所を覗くと、ひたすら洋楽のレコードを聞きながら五線紙に写取る、紅華の姿が見て取れたという。 1913年(大正2年)には「茶目子の一日」「目無し達磨」「毬ちゃんの絵本」などの御伽歌劇の作詞・作曲をして、当時の山の手の上流階級に蓄音器を売ろうともくろんだ「童謡作家」、その後の1917年(大正6年)10月、石井漠(1886年 - 1962年)らとともに「東京歌劇座」を旗揚げ、自身の手によるミュージカル『カフェーの夜』を浅草公園六区の日本館で公演〔、「浅草オペラ」の嚆矢となる〔〔。1921年には、同年3月、奈良県生駒郡生駒町(現在の同県生駒市)に落成した生駒劇場に「生駒歌劇団」を結成、同年8月に第1回公演を行い、生駒歌劇技芸学校を創設したが、これには失敗し〔、同年10月には解散した。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で浅草オペラが衰退すると、1929年(昭和4年)に日本ビクターに入社、同社では「君恋し」「祇園小唄」「浪花小唄」「唐人お吉」などをレコード化しヒット作をだす〔〔。特に当時の異色の歌手二村定一を採用したレコード吹き込みは、単なる「作曲家」としての紅華ではなく、「プロデューサー」としての才能を遺憾なく発揮、一世を風靡した時期であった。 その後、日本ビクターから日本コロムビアに移籍、今でも日本各地に残るご当地ソングのはしりとしての新民謡の「民謡作家」、映画音楽、舞踊小唄を作曲し、生涯に約2千曲を作曲したという。レコードだけでも記録に残るもので770曲ある。 1931年(昭和6年)、埼玉県大里郡寄居町寄居玉淀に数奇屋造りの新居を建築し始め、翌年から住み始める。「枕流荘」虚羽亭・京亭と号す〔。完成するまでに5年とも6年とも言われているが、実際はなお未完成である。京亭の設計図は紅華自ら引き〔〔、現場の監督までした。 1961年(昭和36年)1月18日、寄居の自宅で死去した〔〔。満74歳没。この年の暮れ、フランク永井によるリバイバル曲『君恋し』が第3回日本レコード大賞を受賞した〔第3回日本レコード大賞 、日本作曲家協会、2015年9月4日閲覧。〕。旧佐々邸である京亭は、佐々の没後、割烹旅館として営業を開始、佐々の養女・佐々靫江が女将を務め、2015年(平成27年)6月現在も営業を行っている〔〔寄居町の京亭、埼玉S級グルメ提供店の認定証を上田知事から手渡される 、寄居観光ナビ、2014年1月21日付、2015年9月4日閲覧。〕。佐々の養女の夫は、映画監督・演出家の清島利典(1944年 - 〔清島利典 、日本映画監督協会、2015年9月4日閲覧。〕)である〔。日本音楽著作権協会(JASRAC)は、2015年9月現在、すでに佐々の著作権は消滅したものとする〔作品データベース検索サービス 検索結果、日本音楽著作権協会、2015年9月4日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々紅華」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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