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佐世保市の歴史 : ミニ英和和英辞書
佐世保市の歴史[させぼしのれきし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [ほ]
  1. (n,vs) guarantee 
: [し]
  1. (n-suf) city 
歴史 : [れきし]
 【名詞】 1. history 

佐世保市の歴史 : ウィキペディア日本語版
佐世保市の歴史[させぼしのれきし]

佐世保市の歴史(させぼしのれきし)では、現在の長崎県佐世保市に属する地域の歴史を詳述する。なお、行政区域の変遷については親記事を参照されたい。
== 概説 ==
現在の佐世保市域に人類が住み始めたのは有史以前、旧石器時代からで、世界最古であった縄文土器が出土した泉福寺洞窟豆粒文土器)や福井洞窟隆起線文土器)等の洞窟・岩陰遺跡があり、その数は全国最多を誇る〔日本の洞窟・岩陰遺跡 〕。また自然水銀黒曜石、サヌカイトの産地でもあり、前記の遺跡群と共に、門前遺跡 (国内最古の建築形式である胴張形掘立柱建物跡)、独自のイモガイ文化を持つ宮の本遺跡、大野台遺跡、四反田遺跡など日本史を解明する上で重要な遺跡が旧北松浦郡地域に偏在する。
現在の佐世保市域は、古代中世には肥前国に属し松浦郡彼杵郡にあたる。〔市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 郡変遷 1889年4月1日
奈良時代に編纂された肥前国風土記によれば、現在の早岐付近に速来津姫をいただく土蜘蛛と呼ばれる土着豪族があり、景行天皇の命により討伐されたという。なお、同風土記には、早岐の特産品としてワカメが挙げられている。
平安時代の松浦郡相浦、中里、竹辺地域には武辺胤明と初期松浦一族の相神浦氏の存在が見られる。平安末期、一族不和のため相神浦堅が小城郡多久に移住。現在も北多久に相ノ浦という地名と相神浦から勧請した飯盛神社がある。
鎌倉時代になると松浦党が北松浦半島周辺に勢力を広げ、室町時代になると本家にあたる宗家松浦氏が相浦付近に武辺城を築いて一帯を支配した。一方、同族のうち現在の市域中心部に拠った者が佐世保城を築き、佐世保姓を名乗った。古文書には佐世保城主として「佐世保清」「佐世保諫」等の名が残っている。
郷土史家の澤正明は、佐世保という地名は松浦氏の一族とみられる“佐世保氏”の名前に由来するとして、現在も松浦市内に佐世保田代や佐世保崎という小字が残っていることから、15世紀に松浦氏が拠点を松浦市から相浦地区に移したときに一緒に移動してきた一族の「佐世保氏」の名前が定着したとしている〔澤正明「宗家松浦戦国記」芸文堂、2010年〕。
戦国時代には平戸松浦氏・宗家松浦氏・大村氏等が激しく争いを繰り広げ、最終的には現市域の大半が平戸松浦氏の支配に帰し(→平戸藩)、そのまま廃藩置県に至った(宮地区は大村氏(→大村藩)、宇久地区は宇久氏改め五島氏(→福江藩)が支配)。
江戸時代には平戸往還が整備され、中里・佐世保・早岐に本陣が置かれた。この当時は相神浦(現在の相浦)と早岐に比較的大きな集落がある以外は農漁村地帯が広がっており、新田開発も各地で行われた。藩内で採れる石炭を、相神浦の港から製塩の中心地であった本州・四国の瀬戸内海沿岸地域に輸出し財を築いた、塩屋松五郎に恋塚左平や草刈太一左衛門がいる。
平戸松浦藩9代藩主松浦清(静山)の随筆甲子夜話」には、江戸中期享保時代(1720年頃)の佐世保名物として針尾駒、早岐白荒生、焼酎。権成寺蓮、同浦白和布。三河内陶器。日宇真綿。佐世保葛粉。相神浦上米。知見寺の鶉、賎津浦伊勢海老。同浦恵美須嶋釣針松。白魚川白魚、鮎と記してある。
明治時代に入ると海軍において九州西部に軍港の建設が求められた。いくつかの候補のうちから当時人口千人余りの寒村だった東彼杵郡佐世保村〔市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1889年4月1日 〕が適地とされ、鎮守府の設置以後急速に海軍施設と街の整備が進められた。1902年には村から一足飛びに市制を施行〔市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1902年4月1日 〕、市民の8割が隣の佐賀県からの移住者であった。九州でも五指に入る大都市として発展していくが、第二次世界大戦末期に空襲で市中心部が焦土と化し、終戦と海軍解体とともに人口の急減をみた。これは市民の殆どを占めた移住者が、地元に帰ったためである。
戦後、公選初代の市長中田正輔を中心に旧軍港市転換法による佐世保港の商港への転換と九十九島を中心とした西海国立公園の指定による観光地としての基盤整備を図るが、朝鮮戦争勃発とともに米軍を中心とした国連軍の朝鮮戦線に向けての前進基地として再び軍港としての機能を担うことになり、現在まで米軍及び海上自衛隊を中心とした軍港としての機能と商港としての機能の棲み分けが大きな課題となっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐世保市の歴史」の詳細全文を読む




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