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岡﨑 一明(おかさき かずあき、1960年10月8日 - )はオウム真理教元古参幹部〔『死刑』 31頁。〕。確定死刑囚。ホーリーネームはマハー・アングリマーラ。 岡﨑の読みは「おかざき」ではなく、「おかさき」である。 現在の姓は宮前〔公安調査庁 内外情勢の回顧と展望(平成24年1月) 〕。 == 経歴 == ===生い立ちと入信以前=== 岡﨑家の次男として未熟児で生まれ、10か月後に、実母が養育放棄で失踪。残された実父はその1年後、佐伯家へ養子に出して(2歳3ヶ月)再婚。岡﨑は、実母が消えたショックで4歳頃まで言葉の発達が遅れ、飼い犬とよく遊んでいた。その頃、流行歌のワンフレーズを養父母の前で歌い、絵を描くのが好きだった。 養父母と3人で暮らす家は貧しく、一時期、水道も無い片田舎に暮らしていた。特に養母は宗教遍歴があり、津和野稲荷の信者であった。岡﨑が3歳のころ、三輪車ごと工事中の穴に落ちた時、ケガも無くキョトンと穴の中に立っているところを発見されるや、近くにお稲荷さんの祠があったことから、「若いお狐様から助けられたんじゃ。一明と一緒に遊んでおられたんじゃ。」と言って、養母は喜んでいたという。 養父も創価学会に入信し、岡﨑は5歳の頃から、毎朝手を合わせ、御題目を掲げている。また、富士宮市の総本山大石寺には2度連れられていったことがある。岡﨑は、幼少の頃から人のオーラが分かり、よく見え、空気中のプラーナを追ってはしゃいでいた時、養母から「自分からあまり人には言わん方がいいのう。」と言われた。 小学校に上がる前、養母から「死」や「魂」について教えられたがピンと来なかった。その後、田んぼの畦道を歩いている時、突然「死」の恐怖に襲われて立ちすくんでしまい、「自分が、死んで無くなるとは、今、思う心や意識まで、この世から消えてしまうのか。」と、まるで奈落の底、虚無の闇へと引きずられるような戦慄を覚え、凍て付いた体験をする。その頃から、養父母は丹沢麓に在る口寄せの寺を訪ね、地蔵菩薩を信仰するようになった。 小学校2年生の時、ブレーキの壊れた友人の自転車に乗って、10トンのダンプにはねられる事故で入院。自転車はペシャンコ。岡﨑は数十メートル離れた河原まで飛ばされており、奇跡的に2週間で退院。その後、オウムに出家するまで4回の事故に遭い、入院もしくは軽傷、無傷で助かる。4年生の頃から器械体操を好み、宙返りができた。中学生時代は2回の転校で、柔道部。剣道部、ブラスバンド、落語部、美術部に入っていた。小学校6年生から新聞配達をしていた。養父が職場での事故(労災)により退職後、余儀なく生活保護を受ける。 中学生の時、友人の紹介でキリスト教のプロテスタントの宣教師(ドイツ人女性)に会い、教会の日曜学校に通い始め、聖書を学ぶ。夏の合宿にも参加したが、転校で縁が切れる。 その後、山口県立小野田工業高等学校工業計測科(現・電子計測科)に入学。高校の学費は奨励金で賄い、剣道部の部長となり、日曜日はゴルフのキャディーや遊園地のアルバイトや土方をやりながら、その収入で身の回りの生活用具をそろえ、養父母にタバコ銭も上げていた。 当時から倫理・哲学が好きで、友人と議論をして、小説の感想文も書く癖があった。また、同校の文化祭の「のど自慢大会」で優勝する。同校を昭和54年(1979年)に卒業し、働きながら山口大学の夜間部に進学する予定で願書まで用意したが、就職先の土木会社の社長が入学金を渋り、無視する態度に3か月で辞め、知人の紹介で1年ほど製造業社に勤務。その後学習教材の営業所長の説明会で、これなら人のためになると思い立ち、入社。翌月には新人賞を得て、トップの営業成績のまま、最年少の所長として松江市に栄転する。全国で16番目の営業所オープンで、20歳の時であった。 その頃、養母がアルツハイマーとなり、岡﨑は佐伯家の業の深さを感じ取った。当時のベストセラー本『守護霊を持て』(桐山靖雄著)に影響を受けて、先祖のカルマを断ち切ることを盲信し、養父と共に市内の不動明王の口寄せ寺へ行って、先祖供養の正しい方法を学んだり、養父の紹介で下関の有名な老師に会いに行くなどして、自ら仏具店で14万円もする木彫りの千手観音像を買い、毎日般若心経を唱えることになる。 この頃、車の運転中でも読経を続け、著名人の墓所の近くを通ったときには、わざわざ車を止めて立ち寄り、墓参りをしていた。何も求めず、ただそうすることで自然と心が落ち着いた。 更に、精神世界に関する本を読みあさり、生長の家の『生命の實相』40数巻も読了。昭和57年(1982年)の春頃、『天台小止観』を熟読し、大きな気付きを得て、空気が一変する体験と共に、職場の人間力が向上し、全国で2位の営業成績を上げるまでに至る。しかし、その後、社長の欺瞞や詭弁の裏の顔を知り、部下に70万円だまし取られて人間不信に陥り、会社を去って兄弟夫婦と一緒に一時期仕事をやり、その後、熊本で健康食品代理店に就職。この会社社長と懇意な自民党代議士の選挙活動に参加した。 昭和59年(1984年)2月号の写真誌『写楽』に載った成瀬雅春(ヨーガ行者)の空中浮揚写真を見て、日本でもようやく本物の修行者が現れたと素直に受け入れ、ちょうど東京築地に代理店が開設される時、直接、成瀬の五反田の道場に赴き、即入会して指導を受け、成瀬と対話したが、当時の成瀬の言葉の中に救世主らしき発言も無く、弟子を育てる意志が感じられなかったことから、勝手な憶測で不幸にも、たった1日のみの仏縁で終わった。 その後、滋賀県内の製薬会社に就職し、各地の漢方の薬剤師や鍼灸師と親しくなり、彼らと共に東洋医学や仙道、老荘思想などを語り合う仲となる。この頃、福山市のトレーニングセンターに通い、沖式の断食ヨーガ、飲尿療法、呼吸法、ピラミッドパワー、振動水などを行い、自力修行による独自の行法を試みていた。 昭和60年(1985年)3月頃、漢方薬剤師で鍼灸師である得意先の先生から勧められ、阿含宗に入信。京都の本部で桐山靖雄から手渡しで護宝塔を受け、千座行を始めるが、在家信者でも修行すれば解脱が可能と断言する桐山の弁が、途中から、在家では解脱は無理などと、言うことが二転三転し、更に1度、除霊した先祖の霊が再び取り憑くなど、欺瞞や詭弁が多くなり、桐山自身、解脱の方法論が示せないことが分かり、脱退に至る。その頃、『あるヨギの自叙伝』(パラマハンサ・ヨガナンダ著)の本に感銘を受け、グルと弟子との強い絆のカルマを信じ、ヨガナンダのグルであるユクテスワのようなグルを求める憧憬心が湧き上がるばかりで、他にもバグワン・シュリ・ラジニーシの本も熟読し、チベット密教ではなく、インド行者の方へと傾倒していった。 そして、このような心理状態の中で、昭和60年の夏頃、精神世界の雑誌『ムー』(学研)に麻原の空中浮揚の写真を見て、彼に直接、電話をして、声を聴いて本物かどうか確かめてみようと思った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡崎一明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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