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佐嘉飯盛城(さがいさがいじょう)は佐賀県に存在した日本の城(平城)。 == 概要 == 佐賀平野南部に設けられ、現在の佐賀県佐賀市本庄町鹿子に位置する。周囲はクリークを利用した水濠に囲まれていた。別名は、飯盛館、飯盛屋敷。城郭というよりも、戦国時代の在郷武士の居館程度の規模であったと考えられる。 肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村中心部の本善寺(永享元年(1429年)、石井忠國によって建立)付近に、大宰府守護少弐満貞の嫡男資嗣によって築かれた。その後、地侍飯盛氏が入り、さらに当村の知行主である石井忠保(小城郡晴気城主千葉氏の一族)が小城郡から移り、本拠地とした。 忠保の孫忠清のとき、水ヶ江城主龍造寺家兼の家臣となり、当城も水ヶ江城の出城として、海岸警備の拠点となる。天文年間に、家兼・隆信二代に渡り、水ヶ江城を追われて筑後国に亡命すると、敵方の高木氏、神代氏、八戸氏の軍勢が駐屯した。天文22年(1543年)、龍造寺隆信が筑後国から帰還し、水ヶ江城へ進軍する途上、隆信旗下の石井義昌(忠保の孫、忠清の三弟)・忠晴父子の軍勢が奪回し、再び石井氏の居城となった。 江戸時代に入り、石井氏は佐賀平野のさらに南部の河副郷に転封となり、当地を去ったことから、当城も廃城となり、城域にあった本善寺も衰退した。元和元年(1615年)、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂が、外祖父石井常延(忠清の嫡男)の追善供養のため、本善寺を再興し、常延の法名に因んで常照院と改称。現在では同院の境内がかつての佐嘉飯盛城跡とされている。常照院の境内が、旧城の主郭(本丸)と考えられ、主郭の南に二郭(二の丸)、さらにその南に三郭(三の丸)が配置された縄張りであった。境内には、城時代の古井戸跡や、水豪跡などが残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐嘉飯盛城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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