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佐治 一成(さじ かずなり)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。織田氏の家臣。佐治信方の嫡男。母は織田信長の妹・犬。 == 生涯 == 尾張佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた。その立場は織田氏に従属的な家臣とする説と、独立的な国衆で、父の信方が永禄初年頃に信長の妹・犬を室に迎えていることから、織田一門格であるとする説がある〔平野(2005)〕。 父・信方は織田氏による伊勢長島攻めに従軍して戦死(天正2年(1574年)とも、元亀2年(1571年)〔瀧田(1965)〕ともいわれる)したため、幼少の一成が家督を相続する〔母の犬は信方の死後、織田家に戻り、室町幕府管領細川氏の細川昭元に再嫁している。こうした事情から、犬は一成の生母でない可能性も考えられており、また一成は信方の子でなく弟とする説も存在する。福田(2010)〕。 近江国小谷城主・浅井長政の娘・江〔江(崇源院)は長政と信長の妹・市の三女。姉には茶々(淀殿)、初(常高院)がいる。江は後に豊臣秀勝に嫁ぎ、秀勝死後は家康の三男・徳川秀忠に再び嫁いで将軍御台所となっている。長政は天正元年(1573年)に信長により滅ぼされており、市と三姉妹は織田家に保護され尾張へ戻っていたと考えられている。〕を妻に迎えたといわれており〔『太閤素性記』『柳営婦女伝系』『玉輿記』〕、後に離縁したといわれているが、諸説ある。 天正10年(1582年)の本能寺の変による信長横死後、その次男・織田信雄に仕えるが、羽柴秀吉と徳川家康・信雄の敵対から発生した天正12年(1584年)3月の小牧・長久手の戦いにおいて、合戦後に家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡しにおいて船を提供し、秀吉の怒りを買い大野を退去したという(佐屋の渡一件〔『柳営婦女伝系』ほか。佐屋の渡一件については不明であるが、小牧・長久手合戦の発端となった事件として尾張では信雄家臣の星崎城主岡田重孝が秀吉に内通して粛清されており、一成もこれに関係して大野退去に至った可能性が考えられている。瀧田(1965)〕)。一方、文書上においては小牧・長久手後にも一成の大野支配が確認されているが、天正13年(1585年)の頃とみられる『織田信雄分限帳』においては一成の名が見られず、一成の大野退去は小牧・長久手後の論功行賞によるものであると考えられている〔。 その後、伯父・織田信包の領する伊勢へ逃れてその家中にあり(丹波・柏原藩筆頭家老など〔三百藩家臣人名事典5、新人物往来社 (1988/12)〕)、後に信長と側室・お鍋の方の娘で従妹にあたる於振を正室に迎えたと伝えられる。 寛永11年9月26日(1634年11月16日)、京都にて死去した。享年66。墓所は龍安寺にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐治一成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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