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佐沢 太郎(さざわ〔宮武・西田。〕 / ささわ たろう〔武内。〕、1838年8月8日(天保9年6月19日) - 1896年(明治29年)5月26日)は明治時代の日本の洋学者、文部官僚。旧名元太郎、諱は高仰〔海後。〕。 == 来歴 == 天保9年6月19日(1838年8月8日)、備後国品治郡新市村に三木嘉久平の五子として生まれる。福山藩儒江木鰐水の門に学んだのち、安政2年(1855年)に品治郡江良村の医師佐沢泰介の養継子となり、蘭方医となるため藩校誠之館の洋学教官寺地舟里、次いで長州藩の青木周弼に師事。さらに文久元年(1861年)、大阪の緒方洪庵に入門し、翌年秋には幕命により江戸に赴く師に同伴。幕府の西洋医学研究教育機関・医学所に入った。文久3年(1863年)、福山藩から洋学修行を命じられ、幕府の洋学研究教育機関・洋書調所(同年中に開成所と改称)でも修学。のち専ら開成所で学び、フランス語を研鑚した〔。 元治元年(1864年)、開成所句読師を命じられ、慶応2年(1866年)に開成所教授手伝並に昇進。蘭学係、次いで仏学掛となった。慶応末年には化学教官辻理之助(新次)らとともに『遠近新聞』を発行している〔。幕府崩壊後の慶応4年(1868年)7月、福山に帰藩すると洋学助教を命じられ、明治2年(1869年)9月には兵学助教を兼務。12月、洋学教授兼兵学教授に進み、翌年12月の官制改革で福山藩一等教授となったのち、明治4年(1871年)11月の福山県廃止にともない解職となった〔誠之館百三十年史編纂委員会。〕。この間、明治3年に藩庁が学制改革を布達すると河村重秀ら校務掛とともに改革の実施に当たり、漢学中心の藩校を廃して普通学を授ける小・中学校および女学校を設けた。翌年には郡村庶民のための啓蒙所設立の発起人に名を連ねている〔倉沢剛著 『幕末教育史の研究 三 諸藩の教育政策』 吉川弘文館、1986年4月、ISBN 4642032533、430-432頁、772-777頁。久木幸男、山田大平 「郷学福山啓蒙所の一考察 」(『横浜国立大学教育紀要』第29集、1989年10月、)11-15頁。〕。 明治5年(1872年)2月、文部省九等出仕となり編輯寮に勤務。編輯寮廃止後の同年10月、文部省八等出仕に進み、はじめ学務課翻訳掛、次いで教科書編成掛、反訳課、報告課に勤務した〔「公文録・明治十四年・第百六十二巻」。〕。明治6年(1873年)に文部省から刊行された訳書『仏国学制』は明治5年8月に制定された学制の立案にあたり稿本が主要参考資料として用いられたともいわれるが、稿本は見つかっておらずその成立の時期も定かではない〔神山栄治 「ナポレオン学制と明治五年「学制」」(「講座 日本教育史」編集委員会編 『講座 日本教育史 第二巻』 第一法規出版、1984年4月)277-280頁。〕。明治7年(1874年)11月には宮城師範学校長を命じられたが、同月中に文部省出仕を免ぜられている〔。その後、明治10年(1877年)に鈴木唯一、辻新次らと汎愛社を設立。同年6月から明治13年(1880年)4月まで機関誌『教育新誌』の編集長を務めた〔木戸若雄著 『明治の教育ジャーナリズム』 近代日本社、1962年7月、3-4頁。教育ジャーナリズム史研究会編 『教育関係雑誌目次集成 第I期教育一般編 第20巻』 日本図書センター、1987年8月、ISBN 4820506404、95頁。〕。明治13年5月、文部一等属として復職。翌年11月に准奏任御用掛、明治17年(1884年)2月に文部権少書記官に進み、明治18年(1885年)12月に非職となるまで同省に在職。地方学務局(のち普通学務局)に勤務し、明治18年2月に編輯局、次いで報告局に移った〔「公文録・明治十四年・第百六十二巻」。『官報』第183号、1884年2月12日、4頁 。同誌号外、1885年12月29日、3頁 。『文部省職員録』明治14年11月19日改 、8頁。『官報』第484号、1885年2月14日、6頁 。同誌第482号、1885年2月12日、7頁 。〕。 明治29年(1896年)5月26日、腸チフスのため東京本郷区西片町の自邸で死去し、本郷の吉祥寺に葬られた。享年59〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐沢太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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