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佐竹 一雄(さたけ かずお、1925年1月28日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手。右投げ右打ち。パシフィック→太陽→松竹、国鉄でプレイ。ポジションは捕手・一塁手。 == 来歴・人物 == 京阪商(現:大阪府立芦間高等学校)を卒業後、ゼロ戦の整備に従事していたが、第二次世界大戦終戦後のある日、新聞を見ていたところ、プロ野球球団・パシフィックの選手募集広告を見つけたことがきっかけで1946年にパシフィックへ入団。1年目から34試合出場するも、捕手としては18試合しか出場しておらず、専ら代打として出場し37打数5安打5打点1本塁打と特に目立った活躍はしなかった。 しかし、太陽ロビンスとチーム名を変えた2年目、佐竹は正一塁手を獲得。382打数81安打、打率.211ながら2年目にして初の規定打席に達すると、翌年再び捕手に戻り106試合マスクをかぶった。その年の9月6日の試合でノーヒットノーランで捕手を務めた(これから佐竹は2回ノーヒットノーラン、1回完全試合の捕手を務めている、2013年現在、三度ノーヒットノーランを経験した捕手は谷繁元信と佐竹しかいない。)。2リーグ分裂後の1950年に松竹ロビンスに名称変更し、その年に2位の中日に9.5ゲーム差をつけ優勝。しかしこの年荒川昇治に正捕手を譲り優勝に貢献できなかった。 その翌年国鉄に移籍。国鉄の移籍入団1人目である(自由契約になったばかりで、ほぼテスト入団同然だった)。佐竹は、当時国鉄が2リーグ制スタート時にできた新しい球団で選手層が薄かったため、この年いきなり99試合出場し、打撃面も自己最高となる353打数105安打、打率.297の好記録を残した。 1957年引退。後にコーチ、球団取締役も務めヤクルト初優勝時には球団広報を務めていた。 選手としては、889試合で4回も無安打無四球試合を経験。これは日本で最も多い回数である。同じく4回で1位の和田博実は長く西鉄の正捕手を務めていたが佐竹は異なった球団で経験しているので大変珍しい記録である。なお889試合という決して多くない出場数ながらのこの数字は他のキャッチャーより大変恵まれていることがわかる(野村克也は一度も経験していない)。ちなみに889試合で4回という回数は222試合に1回の確率となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐竹一雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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