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佐竹 義遵(さたけ よししげ、1838年(天保9年) - 1901年(明治34年))は、佐竹氏一門の佐竹西家当主。久保田藩大館第11代所預。男爵。 父は西家佐竹義茂。母は佐竹義術の娘武子。正室は岩城隆喜の七女仲子。子は佐竹正一。幼名隆之助。通称は九郎、大和。諱は義倫、義貴、義純。号桂城。 == 経歴 == 大館城代佐竹義茂の子として生まれる。1864年(元治元年)、父の隠居により家督相続し大館城代となる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際に久保田藩が新政府軍につき、列藩同盟側の盛岡藩(南部家)に8月に大館城を攻撃され、支えきれず8月21日城に火を放って退却した(大館城攻城戦)。8月28日には佐賀藩からの援軍を受けて反撃し、9月5日に盛岡藩軍が撤退したため大館を奪還した。1868年(明治元年)には新政府の命で盛岡藩の盛岡城受け取りを務める。1869年(明治2年)久保田羽前取締所権知事を拝命。1874年(明治7年)大蔵省に出仕する。1875年(明治8年)大蔵省を辞職して大館に帰る。1900年(明治33年)戊辰戦争での功績により男爵に叙される。1901年(明治34年)死去。享年64。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐竹義遵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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