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佐竹 義和(さたけ よしまさ)は、江戸時代の大名。出羽久保田藩第9代藩主。佐竹義敦(曙山)の長男。生母は側室三木清(清瀧、三木宇平太の娘)。幼名は直丸。通称は次郎。官位は従四位下侍従、右京大夫。号は泰娥、知足斎、突故斎、日新斎、荷風亭など。 == 生涯 == 安永7年(1778年)12月25日に藩主義敦の嫡子となる。天明5年(1785年)7月26日に父の死去により家督を相続する。天明8年(1788年)10月15日、将軍徳川家斉に御目見する。同年12月16日従四位下侍従、右京大夫に叙任される。寛政元年(1790年)3月、藩校(のちの「明徳館)を設立する。同年4月23日、初めてお国入りする許可を得る。寛政2年(1791年)、栗田定之丞を砂留役に任じ風の松原など防砂林の造成・保全に当たらせた。寛政4年(1792年)、産物方を設置し河辺郡で養蚕指導をしていた石川滝右衛門を支配人に任じ、商品作物や春慶塗、川連漆器、白岩焼などの工芸品の生産を奨励させた。寛政5年(1793年)、辛労免高を開始し、蔵入地、家臣知行地によらず耕作を援助した。寛政7年(1795年)、蔵入地、家臣知行地の農政を統括させる藩内の各郡に郡奉行を設置した。文化2年(1805年)、賀藤景林を御財用吟味役木山方勤務兼帯とし林政改革当たらせ、また栗田定之丞による防砂林保全活動を継続させた。文化4年(1807年)、露米会社武装集団によって択捉島が襲撃される、シャナ事件(文化露寇)が勃発したため幕府より蝦夷地警備が命ぜられ、陣場奉行の金易右衛門ら約600人を派遣する。文化11年(1814年)、石川滝右衛門の献言により絹方役所を設置し、滝右衛門をその支配人としたが技術不足から売り上げが伸び悩み3千両の赤字を出し失敗した。また、菅江真澄に出羽国の地誌を作って欲しいと依頼した。文化12年(1815年)7月8日、久保田城において死去。享年40。 詩歌や書画に造詣が深く、数多くの作品を残している。 正室は堀田正順の娘。子は長男・佐竹義厚、次男・佐竹義尹、娘・節(保科松平容敬正室)ら3男3女。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐竹義和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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