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佐脇 良之(さわき よしゆき)は、戦国時代の武将。尾張国海東郡荒子(愛知県名古屋市中川区荒子)の土豪・前田利春の五男。前田利家の弟。 == 生涯 == 幼い頃から刀の扱いに長けていた。佐脇家(佐脇興世)へ養子へ行き、織田信長に小姓として仕え、永禄元年(1558年)の浮野の戦いに参加〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「浮野合戦の事」〕。永禄年間の初めには、兄利家とともに赤母衣衆となっている〔高木文書〕。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、急遽出陣した信長に岩室重休・長谷川橋介・山口飛騨守・加藤弥三郎とともに真っ先に従った〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「今川義元討死の事」〕。永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、尺限廻番衆を務めた〔太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」〕。 その後、長谷川・山口・加藤とともに信長の勘気をこうむったため勘当され、ともに徳川家康のもとに身を寄せた。その際の待遇は不明であるが、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参戦し、長谷川ら3人とともに討死した〔太田牛一 『信長公記』 巻五 「味方か原合戦の事」〕(負傷し、その傷がもとで没したともいう)。 家族構成は、妻(出身氏族不詳)との間に娘(実名不詳、法号「圓智院妙浄」)が一人。娘は前田利家・まつ夫妻に養育され、長じて前田氏家臣の篠原一孝の正室となり、戦国女性の代表的な肖像画を妙法寺(金沢市)に残した。また、息子の佐脇久好は、良之の妻が前田利次の乳母になった関係から利次に仕え、富山藩士となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐脇良之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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