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佐藤 まさあき(さとう まさあき、1937年〔佐藤(1998)、p.368〕9月15日 - 2004年3月11日)は、日本の漫画家、実業家。本名:佐藤雅旦(読み同じ)。 貸本漫画時代に劇画という分野を確立した劇画工房のメンバーの一人であり、ピカレスク漫画の第一人者。一般漫画の世界に転向後もヒットを飛ばした、劇画界の代表的人物の一人である。 == 来歴 == 大阪市西淀川区に生まれる。1944年夏に父の実家のある愛知県祖父江町へ疎開。1945年6月15日に空襲で自宅が全焼し、父が死去したため、そのまま祖父江町で育った〔佐藤(1998)、p.101〕。1947年に手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け、手塚の模写で漫画を描き始める〔佐藤(1996)、p.11〕。中学生の頃から『漫画少年』に漫画の投稿を始めて、『毎日中学生新聞』に入選。1951年に会員数約70名の漫画研究会のあけぼの会を主宰し、機関誌『新天地』を発行した〔佐藤(1996)、p.26〕。1951年秋に母が死去し、姉の嫁ぎ先の大阪で生活するようになる。復讐のドラマが得意という佐藤の作風は、このときの義兄の処遇により形成されたものだという〔佐藤(1996)、pp.37-42〕。 中学卒業後に祖父江町へ戻り、愛知県一宮市の印刷所に勤務する傍ら漫画を執筆。1955年、印刷会社を退職して大阪へ転居〔佐藤(1996)、pp.45-48〕。同年、大阪の貸本漫画出版社、日の丸文庫・八興から描き下ろし単行本『最後の流星投げ』でデビューし、以後、単行本を月に1冊のペースで出して貸本漫画の世界で活躍〔佐藤(1996)、p.67〕。ニヒルな主人公を描いたハードボイルドもので人気を博す。 1959年、辰巳ヨシヒロやさいとう・たかをらと共に劇画工房を結成し、上京。劇画ブームの急先鋒に立つ。全日本劇画研究会を組織し機関誌『劇画界』を発行。で募集した会員は300人から400人になった〔桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』エイプリル出版、1978年、pp.98-99〕。 劇画工房の解散後、さいとう・たかを、川崎のぼる、南波健二らとの新・劇画工房に参加するも発足直後に解散。さらに1959年に山梨県の貸本組合で佐藤の作品が主人公がアウトローであり暴力を肯定的に描くことを理由に不買運動の対象に指定され、貸本出版社からボイコットされる〔佐藤(1996)、pp.138-140〕〔貸本マンガ史研究会編著『貸本マンガRETURNS』ポプラ社、2006年、pp.105、108〕。有害漫画家として干され漫画の仕事を完全に失うが、新規に貸本出版業界に参入してきた高橋書店がそれらの事情を知らずに佐藤に原稿執筆を依頼。そこでスマッシュヒットを飛ばし九死に一生を得る。 1962年に桜井昌一と佐藤プロダクションを設立。漫画単行本や劇画短編誌の出版活動を行う〔佐藤(1996)、pp.191-192〕。桜井が抜けた後は、実兄である記本隆司がマネージャーを担当した〔桜井、p.130〕。佐藤プロでは佐藤や水木しげる、平田弘史の描き下ろし単行本を出した他〔佐藤(1996)、p.199〕、楳図かずお、花村えい子、新城さちこを起用して少女漫画短編誌『花』。ありかわ栄一や南波健二ら若手のアクション短編誌『モーゼル96』を出版〔佐藤(1996)、pp.211-212〕。1965年、貸本屋が急減して貸本屋向けの売上では経営が維持できなくなり、取次を通して一般書店の流通に進出して『劇画全集』をスタートした〔佐藤(1996)、pp.220-223〕。1966年には新書判単行本シリーズ『佐藤まさあき劇画選集』を始める〔佐藤(1996)、p.232〕。 1967年、虫プロ『COM』に読切り短編『猫』を執筆、高い評価を得る。同年、『週刊少年マガジン』に『でっかい奴』(原作:福本和也)を連載開始〔佐藤(1996)、p.237〕。さらに小学館『ボーイズライフ』を連載し、『ヤングコミック』『プレイコミック』『女性自身』『漫画ゴラク』などからの依頼が殺到して量産が始まる。執筆の場が貸本漫画業界から大手出版社となり、原稿料も高騰〔佐藤(1996)、pp.241、240〕。さいとう・たかをと劇画界を二分する大物劇画家として名を馳せた〔いしかわじゅん『秘密の本棚 漫画と、漫画の周辺』小学館クリエイティブ、2009年、p.144〕。 1972年、呪われた出自を持つレイプ魔の物語『堕靡泥の星』の連載を開始、映画化、アニメ化もされる代表作となる。1974年には、鎌倉市に家の中に滝がある豪邸を建築〔佐藤(1996)、pp.288-293〕。数ある成功漫画家の豪邸伝説の中でも、特筆すべきエピソードとなった〔いしかわ(2009)、p.143〕〔竹熊健太郎『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』イーストプレス、2004年、p.14〕。1975年には『若い貴族たち』が東映で志穂美悦子主演の『若い貴族たち 13階段のマキ』として映画化、1977年には『野望』が天知茂主演でテレビ朝日により連続テレビドラマ化された。 漫画の量産と税金に追われる生活に疲れたことから、佐藤プロダクションを解散し、さらに佐藤プロのビルも売却して、1979年に新宿区歌舞伎町でパブレストラン劇画館を開業して、以後はささやかな漫画家生活で第二の人生を送ることを計画するが、レストランは不入りで翌年に閉店〔佐藤(1996)、pp.312-318〕。1980年4月に改めて江古田に喫茶店劇画館をオープンして、漫画家生活を再開するも仕事は激減して、発表誌も休業以前から格落ちした状態に陥る〔佐藤(1996)、pp.319-321〕。 1980年代は仕事数が激減し、趣味と実益を兼ねてGYE企画の名前でビニ本の出版も手掛ける。ヌードモデルの調達からカメラマンも行っていたがビニ本界の元締めの逮捕により撤退〔佐藤(1998)、pp.288、304〕。そして全ての連載が打ち切りになった中で再出発を賭け、佐藤プロで再び出版事業を再開するも返品の山だった。そんな中で1984年に引退を覚悟して出版した『堕靡泥の星』の単行本がヒットし、『プレイコミック』での連載、OVA化などで窮地を脱する〔佐藤(1996)、pp.332-335〕。特に1988年から発売されたOVAは全5巻で7万5千本のセールスとなり印税収入で家を購入できたという〔佐藤(1998)、p.356〕。 1989年からは『堕靡泥の星』小説版を執筆。1992年末に脳梗塞と突発性心筋症を発症〔佐藤(1998)、pp.357-359〕。 1996年に自伝『「劇画の星」をめざして』を著して劇画家生活を振り返った。1998年、貸本業界屈指の美少年であった〔辰巳ヨシヒロ『劇画暮らし』本の雑誌社、2010年、p.140〕自らの女性遍歴を明かした『「堕靡泥の星」の遺書』を「遺書のつもりで」執筆〔佐藤(1998)、p.55〕。 2004年、犬の散歩中に倒れ、心不全により死去〔辰巳(2010)、p.353〕〔佐藤まさあき氏死去 漫画家 共同通信 2004年3月30日〕。生涯で4度の結婚。喪主は記本が務めた〔。 2014年の3月21日から4月10日に、少年時代を過ごした愛知県稲沢市(旧祖父江町)の市立中央図書館において、没後10年目となるのに合わせて企画展「劇画の旗手『佐藤まさあき』展」が開かれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤まさあき」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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