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佐藤孝夫 : ミニ英和和英辞書
佐藤孝夫[さとう たかお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

佐藤孝夫 : ウィキペディア日本語版
佐藤孝夫[さとう たかお]

佐藤 孝夫(さとう たかお、1931年8月10日 - 2005年3月21日)は、宮城県刈田郡白石町出身(台湾生まれ〔『12球団全選手カラー百科名鑑2003』P233の佐藤のプロフィールより、球歴(経歴)部分を参照。〕)のプロ野球選手内野手外野手。右投右打)・監督・スカウト・解説者。愛称は「バンビ」〔。
== 来歴・人物 ==
白石高校から仙台鉄道管理局を経て、に国鉄スワローズへ入団しプロ入り。一年目から24試合連続安打、14試合連続得点(9月7日から10月3日まで。8月6日巨人脇谷亮太に更新されるまでセ・リーグ最多記録だった)など、レギュラーとして活躍、打率.265、14本塁打の成績でセ・リーグ新人王を獲得。また、この年盗塁も45個記録しているが、これはに小坂誠に破られるまで、新人選手による盗塁の日本記録であった。
には22本塁打を放ち、本塁打王を獲得。躍動感溢れるプレーで人気を集め、「バンビ」の愛称で親しまれた。同年、打率.256で打率十傑の10位になっている。この打率は2リーグ制開始以降、現在に至るまで、打率十傑にランクインした中では最も低い数字である。に現役引退。
引退後は、 - と - の2期に渡り国鉄・サンケイ・アトムズ・ヤクルト〔1965年途中からサンケイスワローズ、1966年から1968年までサンケイアトムズ、1969年はアトムズ、1970年から1973年はヤクルトアトムズ、1974年以降はヤクルトスワローズ。〕の打撃コーチを務め、一軍打撃コーチを務めていたには球団初のリーグ優勝・日本一に貢献した。からには西武ライオンズ一軍打撃コーチを務め、2年連続リーグ優勝・日本一に貢献。には阪神タイガース一軍打撃コーチを務め、からはフロント入り。からはヤクルトへ復帰し打撃コーチを務めた。その間監督代行としても、ヤクルトコーチ時代のにシーズン途中で辞任した広岡達朗の後を受けて8月18日からシーズン終了まで、阪神コーチ時代の1984年にも急病のため休んだ安藤統男の代行として6月13日から6月15日までの3試合務めた。
にフロント入りした後、からまでの9年間にわたりヤクルトスカウトを務めた〔。在任当時、小坂誠をヤクルトでは小柄という理由でドラフトで指名ができなかった為、ロッテGMの広岡達朗へ打診し、獲得に至った経緯がある。
同スカウト退任後は2001年から2004年頃までの間、テレビ埼玉(TVS)・J SKY SPORTS→J SPORTS 4の西武戦中継の解説者として活動した〔プロ野球名鑑では2000年から掲載(同年および2001年に日本スポーツ出版社から発行された『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズでは活動先の欄に「テレビ朝日」「CS スポーツch」と表記。2002年・2003年版では「テレビ埼玉」「Jスカイスポーツ」と表記。2004年版ではCS系解説者グループの中に「フリー」扱いで掲載。2005年版(死去する前の月に発売)は未掲載。〕。70歳に解説者デビューした〔『12球団全選手カラー百科名鑑2003』P233の佐藤のプロフィールより、「解説の本格デビューは70歳」と記述。〕事から、のちにプロ野球名鑑で「解説者1年目が70歳はギネスブックもの」と紹介された〔『12球団全選手カラー百科名鑑2004』P237〕。
2005年3月21日、脳出血のため死去。享年73。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐藤孝夫」の詳細全文を読む




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