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鹿内 宏明(しかない ひろあき、旧姓: 佐藤、1945年5月26日 - )は、日本の実業家。 フジサンケイグループ会議初代議長の鹿内信隆の娘婿であり、同議会の第3代議長を務めた。現在は株式会社鹿内事務所代表取締役。 == 来歴・人物 == 東京都出身。1964年に東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)を卒業。東京大学法学部卒業後、1968年に日本興業銀行(現・みずほ銀行)に入行。主に国際畑を歩み、将来を嘱望されていた。1988年、フジサンケイグループ会議議長だった義兄・鹿内春雄の死去に伴い、信隆と養子縁組し議長代行に就任(実権は信隆が握った)。1990年信隆が急死した後に議長に昇格する。 宏明の議長就任後は、春雄や信隆を相次いで失った鹿内家の求心力が弱まっていたが、グループの結束力強化を図る形で1991年2月にグループの最高意思決定機関である「フジサンケイコーポレーション」を設立。宏明が会長兼社長に就くとともにグループの主幹4社(ニッポン放送、フジテレビジョン、産経新聞社、サンケイビル)の会長職も兼務した。また、主幹4社の社長を同社の役員に置いた。会長の業績としてはフジテレビのお台場移転を決断した事が挙げられる。会長在任中の岳父信隆以上のワンマンぶりは語り草で「宏明が出社すると社の他のエレベーターが全て停止する。」「役員全員が正門で出迎える。」「お台場の球体展望台に社長室を置くつもりだった。」等という話が同時の関係者から語られている。 宏明のフジテレビ会長時代に放送開始した番組としては、『クイズ!年の差なんて』(1988年~1994年)、『キテレツ大百科』(1988年~1996年)、『とんねるずのみなさんのおかげです』(1988年~1997年)、『夢で逢えたら』(1988年~1991年)、『らんま1/2』(1989年)、『ドラゴンボールZ』(1989年~1996年)、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(1989年~1992年)、『ちびまる子ちゃん』(1990年~)、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(1990年~1993年)、『FNN NEWSCOM』(1990年~1994年)、『ライオンのごきげんよう』(1991年~)、『平成教育委員会』(1991年~1997年)、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(1991年~1997年)などが挙げられる。 一方で朝の報道・情報番組は、宏明の肝いりで放送開始した『FNN朝駆け第一報!』や『FNN World Uplink』が、当時民放トップだった日本テレビの『ズームイン!!朝!』に及ばず1~2年で打ち切られ、後にフジテレビが日テレに視聴率三冠王(1994年から2003年まで)を明け渡すきっかけともなった(後に『めざましテレビ』(1994年~)が放送開始し『ズームイン!!朝!』をリニューアルに追い込んだ)。 1992年7月21日、産経新聞社取締役会にて突然会長職を解任された(後任はフジテレビ社長の日枝久)。翌7月22日、宏明は記者会見を開き、ニッポン放送、フジテレビ、サンケイビルの会長職とフジサンケイグループの会議議長を辞任すると自ら発表した。その後取締役も辞任し、フジサンケイコーポレーションは解散、長く続いた鹿内家の経営的支配は終わりを迎えた。 その後、ニッポン放送の筆頭株主として復権を図っていたが、同社の上場により保有比率が低下した。2005年1月に2970株を残し、計262万5000株(発行済株式の約8%)を大和証券SMBC(後の大和証券キャピタル・マーケッツ。2012年に大和証券に吸収合併され解散)に売却。これにより、フジサンケイグループから鹿内家の直接的な影響力は無くなった。 これ以降、宏明はロンドンに生活の拠点を移しており、2009年にはロンドン在住の東京大学卒業生有志による同窓会「英国赤門学友会」の設立発起人を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鹿内宏明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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