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佐藤 恒久(さとう つねひさ、1862年(文久2年7月) - 1907年(明治40年)2月26日)は、日本の明治期における外科医。順天堂副医院長。武蔵国江戸出身。 == 生涯 == 1862年(文久2年)旧暦7月、安房国花房藩士松下信久の四男として江戸に生まれる。1873年(明治6年)父と死別し、兄松下道久の下で育つ。1876年(明治9年)東京外国語学校に入り、翌1877年(明治10年)東京大学医学部予科に入学した。1886年(明治19年)学制変更により東京帝国大学医科大学となった年に卒業する。東京帝国大学医科大学卒業前に陸軍軍医総監佐藤進の養子佐藤梅尾と結婚し婿養子となる〔「順天堂医事研究会雑誌(410) 1907年3月 佐藤垣久先生肖像及略傳p105」(順天堂医事研究会)〕。同級生としては千葉医科大学学長となった三輪徳寛、養生会を創設した伊東重、陸軍軍医として台湾においてペスト菌を確認した岡田国太郎、長崎医科大学耳鼻咽喉科の創始者高畑挺蔵、名古屋大学外科部長を勤めた花房道純・小川三之助等がいる〔「帝国大学一覧 明治42年 医学士(明治42年迄卒業の者)」(東京帝国大学)〕。 大学卒業直後ドイツに留学し、ベルリン大学の眼科教授ユリウス・ヒルシュベルグ等に、婦人科についてはハッレ大学病院産婦人科ロベルト・オルスハウゼン等に学ぶ。1891年(明治24年)7月帰国し一時東京帝国大学医科大学大学院に籍を置くが、1894年(明治27年)に再びドイツに留学し3年間外科を専攻する。1897年(明治30年)帰国後は順天堂副医院長として婦人科及び外科を担当した〔「中外医事新報273 1891年8月 医学博士佐藤恒久」(日本医史学会)〕。 1897年(明治30年)11月三輪徳寛・木村孝蕨・田代正医師の送別の宴が上野精養軒で行われた。その席上日本外科学会創立に就いての話し合いが行われた。田代義徳・近藤次繁・佐藤恒久が日本外科学会規則草案を起草し、引き続いて同年12月協議会を開き、1898年(明治31年)4月7日神田青年会館に於て発起人会が開かれた。発起人会では近藤次繁が本会設立の由来を説明し、翌年4月に第1回日本外科学会を東京で開くことを決定した。また、第一回役員選挙の結果、会長佐藤三吉、幹事に近藤次繁・田代義徳・佐藤恒久が選ばれた〔日本外科学会 http://www.jssoc.or.jp/aboutus/society/sokuseki.html〕。 佐藤恒久が逝去する前年1906年(明治39年)、自身が担当していた順天堂医院改築がなり木造モルタル3階建の建物が竣工した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤恒久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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