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佐藤 愛麿(さとう あいまろ(よしまろ)、1857年〈安政4年3月〉 - 1934年〈昭和9年〉1月12日)は、日本のメソジストの牧師、後に外交官、宮中顧問官になった人物である。 == 生涯 == 弘前藩家老山中逸郎泰靖の次男として生まれる。幼名を次郎と言った。勘定奉行佐藤清衡の養子になり、20歳の時に愛麿と改名する。 1875年ジョン・イングより洗礼を受ける。弘前バンドの一人として伝道に従事する。東奥義塾創設と同時に入学する。弘前公会の設立に参画する。 1876年に菊池九郎、本多庸一、イングに引率されて、東北巡幸中の明治天皇に謁見し、珍田捨巳、伊東重らと共に英文演説を奉呈した。 1877年イングの紹介で、アメリカのアズベリー大学に留学する。1881年10月に帰国後、美会神学校の教授になる。 その後外務省に入り、在外公使館の書記官として海外勤務に就く。1900年には在メキシコ特命全権公使、1905年にはポーツマス日露講和会議に際して小村寿太郎の随行員になる。1906年から1913年まで在オランダ兼デンマーク特命全権公使。1914年7月から8月の開戦まで在オーストリア特命全権大使(在スイス公使の兼任は1913年から1916年)、1916年から1918年まで在アメリカ合衆国特命全権大使。 1918年外務省を退官すると、宮内省に入り、宮家別当、宮中顧問官を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤愛麿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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