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佐藤 方政(さとう かたまさ、生年不詳 - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。佐藤秀方(六左衛門)の次男。通称才次郎。別名重秀とも。母は金森長近の姉。美濃国鉈尾山城主。 == 生涯 == 文禄3年(1594年)、父秀方の死により領地を継ぐが、代々の名乗りである六左衛門は兄の清重が継いでいる。しかし、小田原征伐へは方政が父の代理で出陣したともされるのは、当時秀方がすでに隠居しており、兄清重は病弱だったためと考えられる。 慶長3年(1598年)の豊臣秀吉死後は、岐阜城主織田秀信の帷幕にあった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては西軍に属し、手兵を率いて岐阜城に入城して、戌亥出丸持口を守備した。東軍が迫ると、木曽川で阻止するため秀信自らが出陣。方政は木造具正、百々綱家と共にこれに従軍し、新加納に布陣するが、8月22日の米野の戦いで、福島正則、池田輝政率いる大軍に破れた。岐阜城の戦いでは名前が見られないことから、そのまま戦線を離脱して敗走したと見られる()。関ヶ原の戦い後は流浪し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では豊臣方に加わって、籠城の末5月7日に戦死した〔()。戒名は佐巌院殿以徳道隣大居士〔。 佐藤系図によれば、兄清重は鉈尾山城滅亡後は養老郡上石津村乙坂に蟄居し、乙坂佐藤家の祖となった〔。方政の嫡男八兵衛は、大坂の陣の後、京都所司代の板倉勝重に許され西国大名に仕官したが、程なく病死した。次男の佐太郎は出家し、尾張国熱田の円通寺の住持弧舟となったが、仔細あって遠島になったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤方政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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