|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 佐 : [さ] 【名詞】 1. help ・ 藤 : [ふじ] 【名詞】 1. wisteria ・ 正 : [ただし, せい, しょう] 【名詞】 1. (logical) true 2. regular ・ 己 : [き, つちのと] 【名詞】 1. 6th in rank 2. sixth sign of the Chinese calendar
佐藤 正己(さとう まさみ、1910年(明治43年)7月16日 - 1984年(昭和59年)8月30日)は、日本の植物学者。理学博士。山形県東田川郡山添村(現・鶴岡市)出身。地衣類研究の権威として知られている。 == 略歴 == *1910年(明治43年)7月16日 - 佐藤雄能の四男として東田川郡山添村下山添にて出生〔佐藤正己先生の御逝去をいたむ(黒川逍、『ライケン』第6巻第1号(1985年6月) 2ページ)〕。 *1927年(昭和2年)3月 - 東京府立第四中学校を卒業。 *1927年(昭和2年)4月 - 水戸高等学校理科甲類への入学許可〔入学許可(『官報』第84号(昭和2年4月13日) 355ページ)〕。 *1931年(昭和6年)3月15日 - 水戸高等学校理科甲類を卒業〔生徒卒業(『官報』第1282号(昭和6年4月11日) 315ページ)〕。 *1931年(昭和6年)4月1日 - 東京帝国大学理学部植物学科への入学許可〔入学許可(『官報』第1289号(昭和6年4月20日) 520ページ)〕。 *1934年(昭和9年)3月31日 - 東京帝国大学理学部植物学科において学士試験に合格〔学士試験合格者(『官報』第2187号(昭和9年4月19日) 496ページ)〕、同大学大学院に入学。 *1938年(昭和13年)4月 - 東京帝国大学副手に就任。 *1938年(昭和13年)11月 - 東京帝国大学助手に昇任。 *1938年(昭和13年) - 母校である府立四中付属夜間中学の教諭となる。 *1942年(昭和17年)2月4日 - 東京帝国大学より理学博士号を授与。主論文は「ハナゴケ目地衣ノ新分類法」〔学位授与(『官報』第4593号(昭和17年5月6日) 190ページ)〕。 *1944年(昭和19年) - ジャバ軍政監部付陸軍技師としてジャワ島に赴任、ボゴール植物園に勤務。 *1947年(昭和22年)1月21日 - 山形県立農林専門学校が設立認可され〔文部省告示第15号(『官報』第6019号(昭和22年2月7日) 27ページ)〕、教授に就任。 *1950年(昭和25年) - 学制改革により国立山形大学農学部教授となる。 *1951年(昭和26年)5月5日 - 個人雑誌として『地衣学雑報』を創刊(第13号(1955年2月)をもって廃刊)〔編集後記(『地衣学雑報』第12号(1954年9月) 47ページ)〕〔地衣学雑報総目録(『蘚苔地衣雑報』付録(総目録) 4ページ)〕。 *1952年(昭和27年) - 茨城大学文理学部に勤務。 *1954年(昭和29年)10月1日 - 茨城大学文理学部教授に就任。 *1955年(昭和30年)9月1日 - 『蘚苔地衣雑報』(服部植物研究所刊)が創刊され、地衣類部門の編集者に就任〔発刊のことば(野口彰、『蘚苔地衣雑報』第1号(1955年9月) 1ページ)〕。 *1969年(昭和44年) - 山形大学農学部講師兼任。 *1972年(昭和47年)4月5日 - 地衣類研究会発足と同時に初代会長に就任〔新発足にあたって(佐藤正己、『ライケン』第1巻第1号(1972年5月) 1ページ)〕。 *1973年(昭和48年) - このころパーキンソン病に罹患〔ムシゴケ類の講演をきいて(鈴木昌友、『ライケン』第5巻第1号(1982年11月) 1ページ)〕。 *1975年(昭和50年)3月 - 茨城大学を定年退官〔会員消息(『ライケン』第3巻第1号(1977年6月) 6ページ)〕、名誉教授となる。 *1984年(昭和59年)8月30日 - 死去。享年74。 *2003年(平成15年)3月 - 茨城県自然博物館に収蔵された20000点を超える地衣類標本(佐藤正己コレクション)の整理が完了し、『茨城県自然博物館収蔵品目録 植物標本目録第3集 佐藤正己コレクション:地衣類』が刊行される〔博物館ニュース(2003年3月30日) (茨城県自然博物館)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤正己」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|