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佐藤氏(さとうし)は、日本の氏族。藤原秀郷をその源流とする。その由来は、左衛門尉の藤原氏の略とされる他、佐野の藤原氏、佐渡の藤原氏等の諸説がある〔太田亮著、佐藤大和、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第2巻』(角川書店、1934年)2622頁参照。〕。 == 陸奥国の佐藤氏 == === 信夫佐藤氏 === 信夫佐藤氏(しのぶさとうし)は、藤原秀郷の子千常を始祖とすると言われ、公清が佐渡の守に任じられたことにより「佐渡」の「藤原」ということで佐藤を名乗った。あるいは、藤原の出自で藤原氏の補佐の意味「佐・(すけ)」で佐藤とも。信夫佐藤とは、他の佐藤氏と区別する際、信夫地方(福島県福島市)を出自本拠地としたことによる一般呼称で、自ら「信夫佐藤」と称していたということはない。 源義経の郎党として治承・寿永の乱で活躍した佐藤継信・佐藤忠信兄弟もこの佐藤氏の出身で、その父佐藤基治(元治)は信夫(福島県福島市)飯坂温泉付近に荘園を所領し信夫荘司・湯荘司と称したといわれる。佐藤基治の妻(乙和子姫・佐藤兄弟の母)は藤原清衡の孫に当たり、その縁で奥州藤原氏の一族として源頼朝の奥州討伐の際、石那坂に陣を敷き防戦した〔太田亮前掲書(角川書店、1934年)2625頁、2626頁参照。〕。 その後、佐藤氏は赦されて信夫(福島県福島市)の地に命脈を保っていたが、南北朝期に伊勢へ移住する。一部が故地・信夫周辺で生き残り、相馬氏、佐竹氏に仕え、幕末には陸奥白河藩の代官となっていた。医王寺や、舘の山公園・(大鳥城・福島市)に佐藤氏の遺跡が残存する〔太田亮前掲書(角川書店、1934年)2626頁、2627頁参照。〕。 戦後昭和期の首相岸信介、佐藤栄作兄弟を輩出した長州藩士の佐藤家も、信夫佐藤氏の子孫を自称している〔山田栄三著『正伝 佐藤栄作(上)』15頁に「佐藤家の祖は、およそ三百年さかのぼることができる。それ以前は、源義経の家臣佐藤忠信に発する、という口伝がある。もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生れ、あとで栄作と縁組することになる寛子は“子供のころから、浄瑠璃狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。義経千本桜四段目で狐の化けた忠信が静御前を守護する。この忠信は源氏車の家紋をつけた衣装で舞う。佐藤家の紋所もまた同じ源氏車である」とある〕。 各地に子孫を残し、それぞれ諸家に古系図が現存する。なお、佐藤氏の本拠地の福島市飯坂では、医王寺に於ける佐藤一族の法要の主催者を家の当主(佐半殿と呼称)としている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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