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佐藤由紀彦 : ミニ英和和英辞書
佐藤由紀彦[さとう ゆきひこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [よし]
 【名詞】 1. reason 2. significance 3. cause 

佐藤由紀彦 : ウィキペディア日本語版
佐藤由紀彦[さとう ゆきひこ]

佐藤 由紀彦(さとう ゆきひこ、1976年5月11日 - )は、静岡県富士市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時のポジションは主にミッドフィールダー (MF) 。
== 経歴 ==
小学1年生の時にサッカーを始める。1992年に清水市商高へ進学。柔らかいボールタッチと卓越したパスセンスを武器に〔小宮,119頁〕、1993年の高円宮杯及び選手権を制した。1994年には背番号10を付け、総体優勝と高円宮杯を連覇。高円宮杯では両大会とも自身の得点が決勝点となった〔全日本ユース(U-18)選手権 過去の決勝vol.1 ゲキサカ (2008年8月15日)〕。さらに国体でも連覇を経験。
1995年に高校を卒業し、鳴り物入りで清水エスパルスに入団。しかし、クラブにとって絶対的存在のMF澤登正朗とポジションが重なったことに加え、「地元出身のスター候補」という周囲からの扱いも重荷になり〔小宮,122頁〕、ベンチ入りも中々出来ずにいた。実戦機会を増やす為にブラジルのグレミオFBPAに長期留学に行かされるなど下積み時代が続き、サッカーの楽しさを感じられなくなりつつあった。
1998年に自ら志願してジャパンフットボールリーグモンテディオ山形期限付き移籍石崎信弘監督の下で攻撃の中心としてトップ下に据えられ、能力を開花させた。ゲームメーカー兼フィニッシャーとして山形を開幕からシーズン中盤まで首位快走させる原動力となり、同年のJFL新人王およびベストイレブンを受賞した。
石崎は翌1999年より大分トリニータへと転任することになり、大分移籍、清水復帰、さらに他数クラブからの獲得の打診と争奪になったが、J1昇格を目指す熱意とサポーターの熱さに惹かれ、清水に籍を残したままJ2FC東京へと期限付き移籍。大熊清監督からは縦への突破力とクロス精度を買われ、山形で務めた司令塔役から右サイドのアタッカーへと転向することになった〔。当初はプレーエリアや視野の違いに苦しんだが、大熊やサポーターに認められるべく懸命に新ポジションでのプレーを続けて攻撃を引っ張り、J1昇格が懸かる同年のJ2最終節では自身の右足クロスから加賀見健介の決勝点を導いた〔21世紀の骨のあるヤツ ぴあ (2000年2月22日)〕。また、この年行われたナビスコカップではニューヒーロー賞に輝いた〔J2に所属する選手としては大会史上初の受賞。〕。翌2000年に向けてはレンタル元の清水に戻る選択肢もあったが、フロント及びサポーターの熱心な引き留めを受けFC東京へと完全移籍した。この頃はまだ一般的な知名度が高くなかったため、国立競技場での選手紹介の際にスタジアムDJが「斉藤ユキヒコー!」と名前を間違えた事もあった。
2001年、新加入のMFケリーに一時ポジションを奪われたが〔 東京中日スポーツ (2001年8月23日)〕、全体練習後に長澤徹コーチの下でクロスを「常人ではありえないほど」繰り返し蹴り込んで〔 東京中日スポーツ (2001年8月18日)〕向上を追及し〔小宮,125頁〕、5月になって布陣を変更してからはケリーがトップ下、佐藤が右サイドに入る形で先発に復帰〔4-2-2-2から4-2-3-1へと変更。攻撃的MFが3人になったことで共存可能となった。〕。長澤の助言を受けてオフ・ザ・ボールの動きも大きく向上し〔 WEBサッカーマガジン (2001年10月18日)〕、ケリーとのコンビネーションは、自ら「運命的な出会い」とコメントする程〔 WEBサッカーマガジン (2001年10月18日)〕 絶妙なものとなった。同年9月にはフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表候補に初選出〔 FC東京 (2001年9月19日)〕。リーグ戦終了後には優秀選手賞として表彰された〔 FC東京 (2001年12月2日)〕。
2002年は負傷で出遅れていたところ〔 東京中日スポーツ (2005年1月19日)〕、新監督の原博実横浜F・マリノスからレンタル移籍で石川直宏を獲得。佐藤はシーズン後半に復帰したが石川の重用は続き、右サイドのポジションを奪い返せずにいた。同年末に入籍〔 FC東京 (2002年12月24日)〕。
2003年は複数クラブからオファーを受ける中〔 WEBサッカーマガジン (2003年7月16日)〕、横浜FMの「優勝以外は失敗」という目標提示を意気に感じて同クラブへ期限付き移籍〔 FC東京 (2002年12月27日)〕。岡田武史監督の下でレギュラーに定着し、右サイドからFW久保竜彦らへ高精度のクロスを放って〔 WEBサッカーマガジン (2003年7月16日)〕 アシストを量産〔横浜F・マリノス 戦力分析レポート J's GOAL (2004年3月3日)〕。クラブのJ1ファーストステージ・セカンドステージの完全制覇に貢献した。シーズン途中には石川と入れ替わる形で〔石川と佐藤由が完全移籍 J1、横浜MとF東京 47NEWS (2003年8月7日)〕 完全移籍へと移行〔 FC東京 (2003年8月7日)〕。しかし、2004年シーズン後半になると、田中隼磨の台頭によって控えに回ることも増えていた。
2005年には古巣の清水に移籍したが〔 横浜F・マリノス (2005年1月5日)〕〔 清水エスパルス (2005年1月5日)〕、直後の負傷によって出遅れ、その後も若手の台頭もありなかなか出番がない状況が続いた。
2006年6月、恩師石崎〔 WEBサッカーマガジン (2007年2月13日)〕 が監督を務めるJ2柏レイソルへ期限付き移籍〔佐藤由紀彦選手が清水エスパルスより期限付移籍加入 柏レイソル (2006年6月18日)〕。先発出場は限られたが、同年のリーグ戦全試合にベンチ入りし〔選手出場記録 (2/3) Jリーグ (2006年12月2日)〕〔選手出場記録 (3/3) Jリーグ (2006年12月2日〕、FC東京在籍時以来2度目となるJ1昇格に貢献。12月には柏へ完全移籍することが発表された〔佐藤由紀彦選手が完全移籍加入 柏レイソル (2006年12月29日)〕。石崎は佐藤を右サイドではなく、セントラルミッドフィールダーとしての適性を買っており、柏では山形でも務めていたトップ下や、ボランチでも起用された。2007年シーズンをもって契約満了となり退団。
2008年、J2ベガルタ仙台へ移籍〔佐藤 由紀彦選手 ベガルタ仙台へ移籍 柏レイソル (2008年1月8日)〕〔 ベガルタ仙台 (2008年1月8日)〕。山形とのダービーマッチで移籍後初得点を挙げ〔【J2:第14節 仙台 vs 山形】試合終了後の仙台選手コメント J's GOAL (2008年5月18日)〕、持ち前の高精度のキックで〔J2仙台は「FK職人」に命運託す 日刊スポーツ (2008年9月28日)〕 短時間でも流れを引き寄せて得点につなげるジョーカーとして〔仙台佐藤-中原ホットラインで連破/J2 日刊スポーツ (2008年5月12日)〕 出場を続けた。同年クラブはJ1との入れ替え戦にまで進出したもののここで敗退しJ1昇格を逃した。12月にクラブから契約非更新が通知され、1年での退団を余儀なくされた〔 ベガルタ仙台 (2008年12月1日)〕。仙台を去る際に残した言葉は次のようなものだった。「1年という短い間でしたが、喜びも哀しみも常にサポーターと共に味わえた自分にとって忘れられない2008年でした。今年からJFLのV・ファーレン長崎で再びサッカーが出来るチャンスをいただけました。この喜びをプレーで表現して、念願のJ2昇格に少しでも貢献出来たらと思います。最後にベガルタ仙台をこれからも愛し続けて下さい!ありがとうございました。」
Jリーグ合同トライアウト参加を経て、2009年3月にJリーグ準加盟クラブであるJFLV・ファーレン長崎へ加入〔佐藤由紀彦選手V・ファーレン長崎へ完全移籍のお知らせ ベガルタ仙台 (2009年3月1日)〕〔 V・ファーレン長崎 (2009年3月1日)〕。当初はDF(センターバック)に配されていたが前向きに取り組み〔インタビュー / V長崎に加入した元日本代表候補・佐藤由紀彦 長崎新聞 (2009年3月2日)〕〔小宮,132頁〕、本来の右サイドに戻ってからは得意のクロスで健在ぶりを見せた。シーズン中盤にはゲームキャプテンを任され、2010年より正式に主将に就任〔新主将に佐藤由「チーム一丸でJ目指す」 長崎新聞 (2010年1月28日)〕。スタジアムの不備によるJリーグ昇格断念など困難が続いたが〔おれたちが決める J2を目指すV長崎 MF佐藤由紀彦 (33) 長崎新聞 (2010年2月23日)〕、チームメートからは厚い信頼を寄せられ奮戦を続けた。2011年B級コーチライセンスを取得〔 日本サッカー協会 2011.04.14〕。2013年よりクラブはJ2昇格を果たし、自身5年ぶりのJリーグでのプレーとなった。同年の出場機会は僅かとなったが、クラブにとってその存在は大きく〔昇格逃したV・長崎。主将の佐藤由紀彦が語る「戦いは終わらない」 (2/3) Sportiva (2013年12月27日)〕 精神面でも牽引を続けた。2014年限りで20年間に渡った現役を引退〔佐藤由紀彦選手 現役引退のお知らせ V・ファーレン長崎 (2014年11月5日)〕。
2015年、13年ぶりに〔13年ぶり復帰…現役引退の佐藤由紀彦氏がFC東京の普及部コーチ就任 ゲキサカ (2015年1月30日)〕 古巣FC東京へ復帰し、普及部コーチに就任〔佐藤由紀彦氏 FC東京普及部コーチ就任のお知らせ V・ファーレン長崎 (2015年1月30日)〕〔佐藤由紀彦選手 普及部コーチ就任のお知らせ FC東京 (2015年1月30日)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐藤由紀彦」の詳細全文を読む




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