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佐藤 直子(さとう なおこ, 1955年1月2日 - )は、東京都千代田区出身の元女子プロテニス選手。現在は日本プロテニス協会理事長。東京国際大学特命教授・硬式テニス部監督。 2011年3月に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了。平田竹男教授のもとでトップスポーツビジネスを研究する。 年代的には沢松和子の後に続き、主に1970年代後半から1980年代にかけて活躍した。彼女は主に全豪オープンで好成績を出し、1977年1月開催の大会でシングルスベスト8、1978年大会で女子ダブルス準優勝の記録を残した。 夫は、外交官の塩口哲朗。 == 略歴 == 永田町小学校(現麹町小学校)在学中からテニスに親しみ、全日本テニス選手権の「15歳以下」の部門に12歳で優勝。16歳から単身で海外遠征を始め、1973年からアメリカのヒューストン大学に留学する。1976年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップの日本代表選手となり、1980年までその位置にあった。1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2回行われた。佐藤が女子シングルスのベスト8に入ったのは、年頭の1月開催の大会である。当時の全豪オープンは参加者が非常に少なく、32人の選手による5回戦制のトーナメントであったが、佐藤は2試合に勝った後の準々決勝でカレン・クランツケ(オーストラリア)に 3-6, 6-4, 0-6 で敗れた。12月開催の大会でも活躍し、2回戦でイボンヌ・グーラゴング・コーリーに 4-6, 0-6 で敗れている。 1978年全豪オープンは12月の年末開催であったが、佐藤はパム・ホワイトクロス(オーストラリア)とペアを組んだ女子ダブルスで決勝に進出した。しかし、その決勝戦ではベッツィ・ナゲルセン(アメリカ)とレナータ・トマノワ(チェコスロバキア)組に 5-7, 2-6 で敗れ、3年前の1975年ウィンブルドン女子ダブルスで優勝した沢松和子とアン清村組の快挙に続くことはできなかった。 佐藤の他の4大大会自己最高成績は、全仏オープンが1981年の2回戦進出、ウィンブルドンが1976年の2回戦進出である。全米オープンは1981年のみの出場で、1回戦敗退に終わった。 全日本テニス選手権での佐藤は、1976年・1984年・1986年・1988年の4度女子ダブルス部門で優勝がある。全日本室内テニス選手権では、シングルスで4勝を挙げた。ジャパン・オープンでは、女子ダブルスで1976年・1978年の2度優勝した。佐藤は競技経歴を長く続行し、1991年2月の「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」予選1回戦でレネ・スタブス(オーストラリア)に敗れるまでトーナメントに出場した。現在はジュニア選手の育成などに携わり、日本プロテニス協会理事などの要職を務めている。 選手引退後の佐藤は、タレントやコメンテーターとしての活動も多く、一時は政界進出を目指したこともある。1992年6月、第16回参議院議員通常選挙において、日本新党の比例代表名簿搭載予定者として発表されたが、選挙直前になり立候補を辞退した。その後1996年の第41回衆議院議員総選挙に新進党公認で、東京都第16区から立候補するが落選。1998年の第18回参議院議員通常選挙には民主党公認で、比例区から立候補したが落選した。 2010年4月、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに入学。平田竹男教授の研究室に所属して研究活動を行った。2011年3月に修了。同研究室の卒業生には桑田真澄や江口晃生などがいる。 2011年4月に東京国際大学の招聘に応じ、同大特命教授・硬式テニス部監督に就任したことが発表された〔佐藤直子氏、本学硬式テニス部監督、特命教授に就任! - 東京国際大学・2011年4月26日〕〔東京中日スポーツ・2011年4月26日付 1面〕。 2011年6月、日本プロテニス協会の理事長に就任。1972年の同協会設立以来、初の女性理事長となった。〔日本プロテニス協会:佐藤直子氏が理事長に就任 - 毎日新聞 2011年6月22日〕
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