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佐藤 輝(さとう てる:1945年3月10日 ‐ )〔2016年度版日本タレント名鑑 2016年1月27日 176頁〕は、日本の俳優、ミュージカル俳優、声優。本名は、佐藤 輝昭(さとう てるあき)。オフィス天童所属。 == 来歴・人物 == 山形県余目町(現・庄内町)出身。余目町立余目小学校、余目中学校を経て山形県立酒田東高等学校卒業。劇団俳優小劇場養成所2期生。歌って踊れる個性派俳優として演技力、歌唱力が高く評価されている。1976年より20年間、劇団動物園にて活動。 ミュージカル『ラ・マンチャの男』にサンチョ・パンサ役で1995年から出演、2008年の帝劇公演でサンチョ役484回の日本最多出演を記録した。 『子午線の祀り』(伊勢三郎義盛役)、『チャングムの誓い』(養父カン・ドック役)、『おしん』(定次役)、大河ドラマ『元禄繚乱』の忠僕八助役など代表作多数。1988年から芸名を佐藤 輝に。 自身は俳優になろうと決心した時の心境を「小学校6年の時に、町内の全5小学校が参加した連合学芸会で、木下順二作『彦市ばなし』の天狗の子の役を演じて、同学年の観客から思いがけない大きな拍手をもらった。それが評判になって、中学校の学芸会でも毎年出演させてもらえる機会に恵まれ、3年の時には『レ・ミゼラブル』の原作『ああ無情』の主役で本来は大男であるジャン・ヴァルジャン役を演じて好評だった。 高校卒業後の進路を決める時、その小中4年間に体験した、仲間と一緒に新しい世界を作っていく楽しさと観客から拍手を受けた喜びを思い出して、156センチと小柄な自分でも一人の人間として仲間と対等に一緒に生きていける場所と仕事があるんだと気付き、身長のコンプレックスを乗り越えて、俳優として生きていく決心をした。」と語っている。 初舞台は1965年、小幡欣治作『畸型児(きけいじ)』。1969年に全国労音『だから! 青春』でミュージカル初出演。 1996年劇団動物園を結成・主宰。1977年の劇団動物園公演、佐藤 輝原案ミュージカル『紅葉乱舞車達引(もみじまうくるまのたてひき)』(観世栄夫演出)の山形県内公演は、県内初のミュージカル公演。 『マイ・フェア・レディ』『屋根の上のヴァイオリン弾き』などのブロードウェイミュージカルからストレートプレイ、日本の古典作品、小劇場、朗読など舞台を中心に、映画、テレビ、ラジオ、ドキュメント出演などの俳優活動のほか舞台作品の構成や演出、講演、俳句、写真、エッセイなど幅広い活動をしている。 こうした佐藤輝の幅広い感性は、高校卒業までをすごした故郷山形県庄内地方の恵まれた風土と文化、500年の伝統を持つ黒川能謡曲の師匠だった父方の祖父や芝居小屋を経営していた母方の祖父などの環境によって育まれた。 モットーは「毎日が初日(しょにち)」。山形県酒田市の観光大使「北前大使」を務める。 1995年から松本幸四郎のドン・キホーテとコンビを組んで出演したミュージカル『ラ・マンチャの男』のサンチョ・パンサ役は、「佐藤輝が演じる、温かく愛らしいサンチョが絶品。」と評され、2008年の帝劇公演で484回の日本最多出演を記録した。この役作りのため、公演の度にラ・マンチャ地方を中心にスペインを7回訪れ、現地では「ハポンのサンチョ」と親しまれている。 1999年新国立劇場、2004年世田谷パブリックシアターで公演された木下順二の名作『子午線の祀り』には義経の一の郎党・伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)役で出演。「精彩を放った佐藤 輝。野村萬斎の技量に、伊勢三郎の佐藤 輝がきっ抗し、盛り上げている。」と評された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤輝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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