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佐賀家喜昇・旭芳子 : ミニ英和和英辞書
佐賀家喜昇・旭芳子[さがのやきしょう あさひよしこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 
: [あさひ]
 (n) morning sun
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

佐賀家喜昇・旭芳子 : ウィキペディア日本語版
佐賀家喜昇・旭芳子[さがのやきしょう あさひよしこ]
佐賀家喜昇・旭芳子(さがのやきしょう・あさひよしこ)は昭和期に活躍した夫婦の漫才コンビ。戦前、戦中は端席、戦後はトップホットシアター新世界新花月の劇場に出た。
芳子が椅子に腰掛け三味線を演奏、喜昇が立って新磯節八木節の民謡を唄う。一節終わり客から喝采を浴びると調子に乗り延長するので席亭を困らせた。最長1時間20分演じたと事もある。「おとろしや漫才」の異名をとった。
珍芸で蝿取りや乞食。猿(エテ公)の物真似は彼が唯一の芸で至芸である〔蝿取りは喜味こいしがテレビで披露した事がある〕。
乞食の物真似では流行歌「満州娘」の替え歌で「御嫁に行きます天王寺。喜イやん待ってて頂戴ね。」に合わせて珍妙な踊りを演じ、あわせて、芳子が「投げ銭、おくんなはれ」と言って客席からおひねりが客から投げ込まれる。新世界新花月では「おい!! キー公(喜昇のあだ名)!! おもんないねん。帰れ!!」等の野次が飛んでくると欠かさず喜昇は「誰がキー公や アホんだら!!」と客いじりをよくしていた。この二つの芸はあまりにも下品だったので角座やラジオ・テレビで披露される事はなかった。新花月をホームグラウンドとし人気を博した。
しかし、注目すべきは、NHKの脚本家だった長沖一昭和10年当時、既に売れっ子になっていた横山エンタツが、「ほんまもんの漫才、見せたげまっさ・・・・わたしら、この漫才には勝てまへん」と連れて行ったのは、この乞食漫才の喜昇の出ている天満の小屋であり、場末の小屋だった。喜昇の舞台を見に来たのは、芸を知っている芸人や関係者、東京から来た大衆芸能好きな見豪奢、京都大学の教授達もだった。
また、放送に乗せられなかったのは、喜昇は自分の芸に時間の規制を設けられるのを嫌ったらしいこともある。晩年、桂米朝が司会をした朝日放送のテレビ番組の『和朗亭』に喜昇を招き出演させたことがある。尚1975年放送のNHKの「新日本紀行 浪華芸人横丁」でも初めてテレビ出演した時の取材の模様が残されている。
「蝿取り」は、立花家扇遊高砂家ちび助なども行っていた。
== メンバー ==

* 佐賀家 喜昇(さがのや きしょう、本名・北中浅次郎、1897年 - 1980年時点では存命)
: 大阪の生まれ。うどん屋の倅で17歳で東京落語家三遊亭圓流の門下で圓幸、俄をやった後2年後漫才に転向し佐賀家圓助(同じ門下には2代目桂春團治がおり、元々近所であった)の門下で佐賀家喜昇となる。22、23歳の時に砂川捨丸・中村春代の門下の初代砂川芳子と組む〔当時から乞食の真似は行っていた。〕。その後浅田家朝日の門下の2代目浅田家(のちの旭)芳子とのコンビを経て、3代目旭芳子と組む。
* 3代目旭芳子(あさひ よしこ、本名・谷久子、生没年不詳)
: 玉子家源丸の門下。京都桂米楽とコンビを組んでいたが3代目旭芳子。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐賀家喜昇・旭芳子」の詳細全文を読む




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