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佐野 宗綱(さの むねつな、永禄3年(1560年)- 天正13年(1585年)1月1日))は、戦国時代の武将。佐野氏の第16代当主で、佐野昌綱の嫡男〔横山氏からの養子説もある。石崎英雄『栃本と佐野氏の歴史』〕。 == 生涯 == 父・佐野昌綱の死後、上杉謙信に度々攻められるが、これを堅城・唐沢山城と自身の知略をもって何度も撃退している。また配下に鉄砲の供出を義務付けるなど〔天正11年6月3日付福地出羽守宛書状〕、当時の関東では遅れていた鉄砲の普及を推奨するなど革新的な政策も施した。また早くから中央政権にも連絡をとっていた。はじめ北条氏と同盟を結んでいたが、北条氏との同盟を破棄して常陸国の佐竹氏と手を結び、北条氏と戦った。 天正4年(1576年)6月10日、織田信長の推挙によって但馬守に任命され、その礼金を献じている。 天正9年(1581年)、北条氏照に攻められたが、これは佐竹氏の援軍の助けもあり、撃退に成功している。 天正10年(1582年)3月、武田氏を滅亡させた織田家の重臣・滝川一益が上野一国を受領すると、叔父の天徳寺宝衍が一益の側近となり誼を通じた。同年6月18日から19日にかけて起こった神流川の戦いにおいては、滝川一益の要請を受け上州和田に出陣した〔『大日本史料 第十一編之一』P.668〕。 天正12年(1584年)4月、佐野宗綱は北条方であった富岡秀高の小泉城を攻撃し、沼尻の合戦が起きた。 天正13年(1585年)元旦、北条氏に与する長尾顕長と彦間で戦った際に、敵将の挑発に乗り、単騎で突出したところを鉄砲で撃たれ、落馬したところを討ち取られてしまった〔唐沢城老談記〕。それまで長尾勢との戦いでは遅れをとった事がなく、自身の武勇を過信し、敵を侮った為とされる。 宗綱の死により、嫡子の無かった佐野氏は北条氏から北条氏忠を養嗣子として迎え入れ、佐野氏忠を名乗らせて家名を保ったが、事実上、北条氏に勢力を吸収された形となり、以後、佐野氏は反北条勢力の跋扈する下野国攻略の拠点として重要視される事となる。 天正18年(1590年)の小田原征伐で、北条氏が没落し、氏忠も運命を同じくすると佐野氏は一旦断絶したが、宗綱没後に出奔し豊臣秀吉に仕えていた叔父の天徳寺宝衍(佐野房綱)が小田原征伐で功を挙げたため、再興されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐野宗綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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