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佐野 慈紀(さの しげき、1968年4月30日 - )は、日本愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者・野球評論家。所属プロダクションは有限会社セットアッパー〔〜FUGA〜キャスティング(フーガキャスティング。講師派遣会社)のプロフィール 〕であり、同社の代表取締役を務める〔野球用電子スコアブックシステム「Touch Score」配信ホームページ 〕〔全国 1,700 万人の野球ファンに贈る 野球用 電子スコアブックシステムの販売開始 - 2011年8月1日、有限会社セットアッパー・株式会社CTU連名によるプレスリリース(prnavi.jpで配信された、PDF文書ファイル)〕。また、石川ミリオンスターズの取締役でもある〔石川ミリオンスターズ公式サイト内会社概要ページ 〕。本名およびかつての登録名は、佐野 重樹(読み同じ)。愛称は「ハゲ魔神」。 中継ぎ投手としては、日本プロ野球(NPB)史上初の年俸1億円プレイヤーだった〔『近鉄バファローズ球団史 1950-2004』P81〕。 「慈紀」については、「滋紀」「慈樹」と誤記される場合もある。 == 経歴 == === 選手時代 === 愛媛県立松山商業高等学校時代の夏に水口栄二らと第68回全国高等学校野球選手権大会に出場して準優勝に貢献した(当時は右翼手兼控え投手)。近畿大学工学部(呉キャンパス)進学後、同学部内硬式野球部(広島六大学野球連盟加盟チーム)でエースとなり、リーグ10連覇に貢献〔、最優秀投手賞を4回受賞〔する。 のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受け、入団。ルーキーイヤーのでは中継ぎ中心に登板して6勝を挙げた。 には、防御率2.00(厳密には1.995)を挙げ、近鉄では主に中継ぎ投手として活躍。オフには中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の1億円プレーヤーとなる。 しかし、は肘の故障で一軍登板はなく、は7月7日の福岡ダイエーホークス戦でプロ初完封勝利を無四球で挙げるも〔2000 ベースボール・レコード・ブック 94 - 95頁 1999年度主要記録集「佐野が9年目の初完封」より。〕、不本意な成績に終わり、同年オフに小池秀郎・善村一仁とともに、門倉健・東瀬耕太郎・古池拓一との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍〔2000年当時の中日スポーツウェブサイト内中日ドラゴンズポータル (インターネット・アーカイブ同8月15日付保存キャッシュ) → 1999年度トピックス一覧 (インターネット・アーカイブ2000年8月18日付保存キャッシュ) → (11月7日)門倉、古池、東瀬が近鉄へ移籍/小池、佐野、善村と電撃トレード (1999年11月7日付記事。インターネット・アーカイブ2001年3月5日付保存キャッシュ)を参照。〕。しかし、5月に一軍登録されたものの〔、6月21日の対巨人戦(ナゴヤドーム)で1イニング4被本塁打の日本プロ野球タイ記録を作り〔、翌日登録抹消〔。以降、一軍への出場機会が無いまま〔、シーズンオフに戦力外通告を受け、アメリカ合衆国へ渡る〔『ユニホームを脱ぐ選手第2の人生』 - 中日ドラゴンズ - 佐野重樹 - 『nikkansports.com』(日刊スポーツ)より、2000年度日本プロ野球シーズンオフに配信された記事。 ※インターネット・アーカイブ2001年2月3日付保存キャッシュ〕〔『惜別球人』2000年版 第3回 中日編 - 『スポニチアネックス』内(インターネット・アーカイブ2001年6月9日付保存キャッシュ)より、佐野への取材記事あり。〕。 は独立リーグのエルマイラ・パイオニアーズでプレー。はMLBのロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約するも、メキシカンリーグのメキシコシティ・タイガースに移籍した後、エルマイラ・パイオニアーズに復帰する。 にオリックス・ブルーウェーブへテスト入団し、日本球界へ復帰。また、入団テストの頃より活動名義を「佐野 慈紀」に変更した。しかし、一軍登板は2試合にとどまり、現役を引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐野慈紀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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