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佐野 文夫(さの ふみお、1892年4月18日 - 1931年3月1日)は、日本の共産主義者で戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部。 == 経歴 == 山形県米沢生まれ。父は山口県立図書館長を務めた図書館学者・佐野友三郎。父の転勤に伴い、少年期を台湾、大分、山口で過ごす。第一高等学校に無試験で入り、菊池寛、井川(後の恒藤)恭、芥川龍之介と同級生となる、高校生時代、特にドイツ語に長け、在学地代から西欧の哲学書を翻訳するほどの天才ぶりだった。卒業後 東京帝国大学哲学科へ進む。第三次『新思潮』の創設に参加するが、中退して故郷に帰り、中学教師を務めた後、1918年に 大連にあった南満州鉄道の調査課図書館に就職。1922年、 外務省情報局に移るが、翌年肺結核を理由に退職。1922年、 市川正一と『無産階級』を創刊、 1923年、徳田球一の要請を受け日本共産党(第一次)に入党、翌1924年の党協議会で解党を決議する。党再建のため コミンテルン上海会議に 荒畑寒村らと出席し、再建ビューロー中央常任委員をへて 共産党再建後、党中央委員。党内では 福本イズムを強く支持していた。1927年、日本共産党の使節団の一人として上海かウラジオストク経由でモスクワレムリンに到着。帰国後、1928年の 三・一五事件で検挙された。写真は当時極秘とされていた日本共産党員たちのクレムリン赤の広場で撮影された記念写真だが、近年モスクワで発見された物である。 1930年に仮出獄するが、1931年に38歳、犬飼病院で死去。当時の記録によれば、間接的死因は虫垂炎とされている。混乱を怖れ、死の事実は暫くの間、極秘とされたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐野文夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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