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佐野 浅太郎(さの あさたろう、1948年3月30日 - )は、滋賀県栗太郡栗東町(現在の栗東市)出身で朝日山部屋所属の元大相撲力士、国際プロレス所属の元プロレスラー。大相撲時代の四股名は日吉山(ひよしやま)で、最高位は序二段62枚目。本名は佐野 実(さの みのる)。身長186cm、体重90kg。 == 来歴 == 瀬田工業高校卒業後、大相撲の朝日山部屋に入門して1965年5月場所に17歳で初土俵を踏む。入門同期に花田満(のちの貴ノ花利彰)がいる。同部屋には兄弟子に三重ノ山(柴田勝久)や二瀬海(サムソン・クツワダ)が在籍し、さらに当時中学2年の鶴田友美も入門しているが、初土俵を踏むことなく辞めている〔Gスピリッツ Vol.37(辰巳出版)〕。翌1966年5月場所に四股名を佐野から日吉山に改名したが伸び悩み、勝ち越しは1場所のみにとどまり1967年1月場所限りで廃業する。 廃業後、1968年2月に国際プロレスに入門、豊登道春の付け人を経て、同年5月27日の稚内大会で大磯武相手に佐野 東八(さの とうはち)のリングネームでデビュー〔。しかし翌1969年6月15日、秋田県中仙町大会で寺西勇と対戦した際、カンガルーキックを左胸に受けて肋骨が折れて肺に刺さる重傷を負う。その後復帰し、9月には豊登の命名で佐野浅太郎に改名。1970年2月に豊登が引退し、佐野はサンダー杉山の付け人になる。5月には東南アジア遠征に参加。翌1971年1月に佐野 先風(さの せんぷう)に改名し将来が期待された矢先、1月31日のデビル紫戦で再び左肺を痛め長期欠場。その後7月に復帰するも7月10日宮城球場大会のエティフィア・ジェラール(稲妻二郎)戦を最後にドクターストップにより引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐野浅太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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