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内藤 元盛(ないとう もともり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣。別名は佐野道可。毛利輝元の密命を受け、大坂の陣で豊臣方として参戦した。 == 生涯 == 毛利氏一門宍戸元秀の次男で母は内藤興盛の娘。母方の伯父の内藤隆春の婿養子となり家督を継ぐ。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、毛利氏は徳川方に従って参陣するが、万が一豊臣方が勝利したときに備え、輝元と執政の毛利秀元の密命を受けた元盛は名前を佐野道可と変え、軍資金と兵糧を持参し大坂城に入城する。 元盛が選ばれた背景には、実母が輝元の叔母、養父にあたる内藤隆春が輝元の伯父であり、従兄弟にあたる輝元の代理になり得る立場にあったこと、当時内藤家が元盛の実兄・宍戸元続の仲介で主家から借財をしていたことが挙げられる〔脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』雄山閣、1993年、ISBN 4639011954)〕。 しかし、翌・慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方は敗北し滅亡。道可こと元盛も毛利氏一門であることが露見してしまう。幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛される。 元盛は、取調べの担当である大目付の柳生宗矩に対し、あくまで豊臣氏に恩義を感じての個人的な行動で、主家とは関係ないと主張する。元盛の2人の息子元珍・粟屋元豊も父が勝手に取った行動と主張したので、幕府も毛利氏の陰謀を追及することができなかった。同年、元盛は山城国桂里大藪村鷲巣寺にて自刃し、事件は一応収束する。 それにもかかわらず、事情を知る息子の元珍・元豊は、幕府の追及を恐れる輝元らにより密かに自刃させられる。これに激怒した綾木の大方(隆春の娘で元盛の妻)は輝元の振る舞いを非難するが、逆に輝元は元珍の子・元宣を幽閉して家名存続の約束を反故とした。このため、内藤氏はいったん断絶する。 慶安元年(1648年)、元宣の子隆昌(元盛の曾孫)が再び毛利氏の家臣となり、1,300石を与えられて復活する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤元盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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