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何香凝 : ミニ英和和英辞書
何香凝[か こうぎょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なん]
  1. (int,n) what 
: [しこり]
 【名詞】 1. stiffness (in shoulders) 2. swelling 3. hardening

何香凝 : ウィキペディア日本語版
何香凝[か こうぎょう]

何 香凝(か こうぎょう)は、清末から中華民国中華人民共和国の女性政治家・革命家・画家。中国同盟会以来の革命派人士で、夫の廖仲愷とともに中国国民党左派として知られる。旧名は。別名は瑞諫。室名に双清楼主。息子は廖承志、娘は廖夢醒で、いずれも中国共産党に属した。
== 事績 ==

=== 日本留学と同盟会参加 ===
香港で各種事業を兼業していた農民の家庭に生まれる。1897年(光緒23年)10月、廖仲愷と結婚。1902年(光緒28年)、廖が日本に留学したのを追う形で、翌年に何香凝も日本へ向かう。日本女子大学校(現在の日本女子大学)予科を経て、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)予科に入学した。1906年(光緒32年)秋、日本女子大学校に再入学し、博物科で学ぶ。1908年(光緒34年)、私立女子美術学校(現在の女子美術大学)に転入して、田中頼章の下で絵画を学び、1910年(宣統2年)秋に卒業した。後に何は画家としても作品を残すことになる。〔尚(1980)、67-68頁。〕〔徐主編(2007)、673頁。〕〔劉国銘主編(2005)、1113頁。〕
その一方で、何香凝は日本滞在中の1903年(光緒29年)春に孫文(孫中山)と面識を持ち、1905年(光緒31年)7月に中国同盟会に参加した。以後も夫の廖仲愷とともに同盟会の活動に積極的に従事している。中華民国成立後も第二革命(二次革命)、護法運動において孫の下で活動した。1922年民国11年)6月、反孫のクーデターを起こした陳炯明に廖が拘束された際には、何が手を尽くしてこれを救出している。〔尚(1980)、68頁。〕〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「何香凝」の詳細全文を読む




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