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依田 勉三(よだ べんぞう、嘉永6年5月15日(1853年6月21日) - 大正14年(1925年)12月12日)は日本の北海道開拓者。北海道開墾を目的として結成された「晩成社」を率い帯広市を開拓した。開墾に関わる業績から緑綬褒章を受章している。北海道神宮開拓神社の祭神。 == 生い立ち == 依田家は甲州武田氏の流れを汲む伊豆国那賀郡大沢村(現:賀茂郡松崎町)の豪農で、勉三は善右衛門の三男として生まれた。もっとも幼くして次男が亡くなったため、戸籍上は次男となっている。幼名を久良之助といい、土屋三余・保科酔月から漢籍を教わる。12歳で母が、後を追うように14歳のときに父が死去し兄の佐二平が後を継ぐ。兄とともに伊豆の松崎町にある土屋三余の私塾「三余塾」に学ぶ。 19歳の時に上京しスコットランド出身でスコットランド一致長老教会の宣教師・医師ヒュー・ワデル(1840年 - 1901年)の英学塾(ワデル塾)に学び後に開拓の同志となる鈴木銃太郎・渡辺勝と知り合う。その後慶應義塾に進み、当時の新知識を吸収。福澤諭吉らの影響もあり、北海道開拓の志を立てたが、胃病と脚気のため2年在学の後中退し郷里に帰る。 明治12年(1879年)に兄・佐二平が提唱した洋学校に渡辺を招き教頭とし1月15日に私立豆陽学校として開校した。この学校は後に郡立中学豆陽学校と名称を変更した後昭和24年(1949年)4月に静岡県立下田北高等学校となる。同校の同窓会は豆陽会を名乗る。 明治12年(1879年)4月に従妹のリクと結婚する。この頃北海道開拓の志を固める。 明治14年(1881年)に、晩成社の代表発起人として単身北海道に渡る。晩成社は失敗に終わるが、開田事業は成功して、十勝開拓の父と呼ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「依田勉三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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