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依田孝 : ミニ英和和英辞書
依田孝[よだたかし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [え]
 (n) depending on
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 

依田孝 : ウィキペディア日本語版
依田孝[よだたかし]
依田 孝(よだたかし、1851年嘉永4年)4月11日 - 1903年明治36年)5月29日)は、日本政治家
== 略歴 ==

=== 出生から民権運動への参加 ===
甲斐国巨摩郡市川大門村(山梨県西八代郡市川三郷町、旧同郡市川大門町)に生まれる。生家の依田家は酒造業を営む家柄。1873年(明治6年)に依田は副区長となる。
明治維新後の山梨県では県令藤村紫朗の主導する殖産興業が実施され、道路開削や官業製糸場の建設など県庁主導による殖産興業政策が実施されていた。一方、明治10年代には全国的な自由民権運動の隆盛と連動して、山梨県においても豪農層や名望家らが中心となり民権運動を展開し、藤村県政への批判が噴出した。
1875年(明治8年)には文人画家の富岡鉄斎が山梨県を訪れ、甲府商家の野口家(十一屋)を拠点に県内の名所・旧跡を訪ねた〔『大木コレクションの名品』、pp.110 - 111〕。鉄斎は帰路に市川大門村で依田孝のもとを訪れている〔『大木コレクションの名品』、pp.110 - 111〕。野口家の当主・野口正忠は甲府横近習町の商家・大木家(おふどう)の当主・大木喬命と交流があり、さらに喬命は依田と交流があり、後に進徳舎をともに設立している〔『大木コレクションの名品』、pp.110 - 111〕。
依田は1877年(明治10年)に開設された山梨県会では区長議員となり、県会副議長も務めている。1877年(明治10年)には県庁広報誌である『甲府日日新聞』に対抗して薬袋義一らと『民間事情』を創刊し、藤村県政批判を展開している。また、同年には明治維新に際して東海道各宿が官軍東征や天皇東幸における人馬継立費用負担の立て替え分支払いを求め、国中三郡との間で訴訟が発生する(東海道宿助郷役金訴訟)。依田は東山梨郡出身の田辺有栄とともに訴訟のため上京しており、東京では田辺をはじめ県内外の民権家とも交遊を深めている。また、1879年(明治12年)には甲府市横近習町に私塾の「進徳社」を開くが、私塾の存在に否定的な藤村は甲府橘町に別の私塾「三同社」を開いて対抗させ、妨害を受けている。
1879年(明治12年)には県内の豪農層を株主に反藤村県政の言論誌として『峡中新報』が創刊され、同誌は山梨県における民権運動の機関誌となる。依田は薬袋らとともに株主総理として運営にも参加し、自信も「国会論」など論説を寄稿し、反藤村県政の批判を展開している。山梨県の民権運動も全国的な国会開設請願運動の影響を受け、1880年(明治13年)には『峡中新報』社主の林誾(はやし ただし)や小田切謙明をはじめとする株主総理らが中心となり国会開設請願が発議され、同年3月には「峡中同進会」が結成された。依田は薬袋、小田切、加賀美平八郎、『峡中新報』主筆の佐野広乃とともに理事委員となり、同年6月5日には田辺とともに上京し、太政官に嘆願書を提出する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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