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侯 進(こう しん、生没年不詳)は、中国の後漢時代初期における武将。范曄の『後漢書』で伝こそ立てられていないものの、後漢草創期の功臣の1人と言える歴戦の武将である。 == 事跡 == 建武1年(25年)7月、積射将軍侯進は他の10人の将軍とともに、大司馬呉漢の指揮下に入り、更始帝配下の左大司馬朱鮪が篭る洛陽を包囲・攻撃した。 建武2年(26年)、頴川太守寇恂が罷免された後の同郡で、郡内出身の厳終、趙敦が1万人余りの兵を集め、密(河南尹)出身の賈期とともに郡内を荒らし回った。破姦将軍侯進は、頴川太守に復帰した寇恂とともにこれを討伐し、数月して賈期を斬り、郡内をことごとく平定した。 同年12月、侯進は光武帝の命で新安(弘農郡)に駐屯し、宜陽(弘農郡)に駐屯した建威大将軍耿弇とともに、長安から東帰しようとする赤眉軍を待ち受けた。翌建武3年(27年)、赤眉軍は大司徒鄧禹の軍を撃破し、南へ進路を変えて宜陽へ向かう。侯進は新安から軍を引き上げ、宜陽で光武帝、耿弇と合流した。結局、赤眉軍は宜陽で漢の大軍に進路を遮られ、投降している。 建武4年(28年)、侯進は輔威将軍耿植とともに建義大将軍朱祜の指揮下に入り、黎丘の秦豊を包囲、攻撃して、翌建武5年(29年)夏にこれを降した。 建武6年(30年)、侯進は捕虜将軍王覇とともに、前将軍李通の指揮下に入り、漢中に駐屯していた蜀(成家)将延岑を撃破した。さらに、蜀の公孫述が漢中に差し向けてきた援軍も、李通、侯進らは西城(漢中郡)で撃退し、順陽(南陽郡)へ帰還して屯田を行っている。 建武9年(33年)6月、侯進は他の3人の将軍とともに呉漢の指揮下に入り、高柳(代郡)で盧芳配下の賈覧、閔堪と戦ったが、匈奴が騎兵で賈覧らを救援するなどしたため劣勢となり退却した。侯進は呉漢の命により、漁陽郡に駐屯している。翌建武10年(34年)、呉漢、侯進らは再び高柳へ出撃して賈覧と戦う。匈奴も騎兵を賈覧の援軍に差し向けて激戦となったが、平城(雁門郡)で連戦の末に遂に賈覧を撃破した。呉漢、侯進らは驃騎大将軍杜茂と合流して、盧芳配下の尹由と崞、繁畤(いずれも雁門郡)で戦ったが、劣勢であった。 以後、侯進は史書に名が見えない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「侯進」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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