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保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年11月11日) - 1929年(昭和4年)12月6日)は、明治から昭和初期の眼科医、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医寮御用掛。肥前国唐津藩出身。 == 生涯 == 1860年12月22日((旧暦)万延元年11月11日)、唐津藩典医保利文溟の次男として誕生する〔「現代人名辞典」 Pホ4「「保利眞直」の項(古林亀治郎編 中央通信社 1912年)〕〔「昭和人名辞典」 Pホ2「保利眞直」の項(光人社 1933年)〕。1887年(明治20年)度に東京帝国大学医科大学を卒業し、大学同期には猪子吉人等がいた〔「東京帝国大学一覧 従明治21年至22年」(東京帝国大学 1889年)〕〔。大学卒業後日本陸軍講習生として大学院に入り、7月陸軍三等軍医(少尉相当)に任官した大学院修了後、医術開業試験試験委員・日本赤十字社病院眼科主幹等を歴任した〔。 1893年(明治26年)1月ドイツ留学を命じられベルリン大学に入り〔 「幕末明治海外渡航者総覧 第1巻」 P306「保利真直」の項(手塚晃・国立教育会館編 柏書房 1992年)〕眼科学を修め、同年イタリアで開催された第11回国際医学会に出席、翌1894年(明治27年)6月オーストリアのウィーン大学に移り〔〔「1894年6月13日付け官報」〕、1895年(明治28年)には再びドイツの〔「1895年5月17日付け官報」〕ハイデルベルク大学に、そしてフランスのパリ大学で学んだ後、1896年(明治29年)6月帰国した〔「軍医森鴎外 統帥権と文学」(松井利彦著 桜楓社 1989年)〕。 帰国後、日清戦争(明治二十七八年役)における陸軍省医務局の公式記録である明治二十七八年役陸軍衛生事蹟の編纂を委員として担当し、1897年(明治30年)には「陸軍薬局方(第二版)」の編纂にもあたった〔「陸軍薬局方」(陸軍省編 川流堂 1907年)〕。この頃帝国大学一期上の岡田国太郎に替り軍医学校校長森林太郎の副官となった〔「帝国医籍宝鑑」 P49「軍医学校」の項(山口力之助編 南江堂 1898年)〕。1899年(明治32年)には、2月陸軍衛生会議議員となり、11月陸軍軍医として7人目の医学博士号を授与され〔「1899年11月25日付け官報」〕〔「大日本博士録 大正11年9月1日」博士番号第45〕、軍医学校教官となった〔。 1901年(明治34年)一旦休職を命じられるが、日露戦争勃発と共に復職し東京第一衛戍病院長事務取り扱い東京予備病院付きを命じられた〔。1911年(明治44年)1月陸軍軍医学校長に任じられた後、1912年(大正元年)9月軍医監(少将相当)近衛師団軍医部長に転じ、翌年7月休職を命じられ1914年(大正3年)予備役に編入となった〔。休職後特命を得、宮内省侍医寮御用掛となる傍らで自宅にて開業を行った。1929年(昭和4年)12月6日、死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保利眞直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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