|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 保 : [ほ] 1. (n,vs) guarantee ・ 保守 : [ほしゅ] 【名詞・動詞】1. conservative 2. maintaining, maintenance ・ 守 : [もり] 【名詞】 1. nursemaid 2. baby-sitting ・ 合 : [ごう] 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) ・ 合同 : [ごうどう] 1. (adj-na,n) combination 2. incorporation 3. union 4. amalgamation 5. fusion 6. congruence ・ 同 : [どう] 【名詞】 1. the same 2. the said 3. ibid.
保守合同(ほしゅごうどう)とは、1955年11月15日に日本で自由党と日本民主党の2つの保守政党が合同して自由民主党が結成されたことを指す。これと先に行われた社会党再統一により55年体制が成立した。 == 背景 == 終戦直後から、社会主義勢力の台頭を危惧する保守政治家の間で、戦前の二大政党であった立憲政友会系政治家と立憲民政党系政治家が結集して新党を結成する構想が出された。政友会系はかつて同党の総裁候補とされていた鳩山一郎を代表に担ごうと考え、戦時中の翼賛議会で鳩山とともに軍部と戦った民政党系の三木武吉が構想の実現に奔走した。 だが、民政党系の多くは党首の経験の無い鳩山よりも自党の最後の総裁であった町田忠治が党首に相応しいと主張し、結局民政党系の大半は大日本政治会を母胎とする日本進歩党の結成に参加し〔但し旧民政党でも翼賛政治に反対した三木武吉・矢野庄太郎らや同交会のメンバーだった北昤吉・坂東幸太郎らは自由党の結成に参加した。また旧政友会でも親軍派が多く政党解消後は大半が翼政会・日政会に所属した革新派や中立派(のちの統一派)は進歩党の結成に参加した。〕〔粟屋憲太郎 著 『文庫版 昭和の歴史 第6巻 昭和の政党』 小学館、1988年11月1日第1刷第1版発行、ISBN 4-09-401106-4、406頁〕〔神田文人 著 『文庫版 昭和の歴史 第8巻 占領と民主主義』 小学館、1989年1月1日第1刷第1版発行、ISBN 4-09-401108-0、98頁 - 99頁〕、結成1ヵ月後総裁に町田を就任させたことにより構想は挫折した〔。だが、翼賛議会において主流を占めた翼賛議員同盟→翼賛政治会の流れを汲む進歩党は間もなく公職追放によって壊滅的な打撃を受けることになった。 一方、鳩山を初代総裁として政友会系を中心に結成された日本自由党(以後合同や改称を経るが以下同党の略称で、最終的な正式名称にもなった「自由党」で統一する)は1946年の第23回衆院選で第一党となった。 ところが直後に鳩山・三木以下幹部の多くが公職追放の対象となってしまう(自由党は新人議員が多かったため、進歩党とは対照的に追放発令後も第一党を維持した)。そこで、占領軍の受けの良い親英米派の外務大臣吉田茂を総理・総裁に擁立して危機を乗り越えようと考えたのである。 鳩山派の考えに反して、吉田は鳩山の公職追放解除後も政権は私物ではないとして、鳩山への政権移譲を拒絶する。この頃には鳩山から任された自由党は結成当初とはかけ離れたものとなっており、官僚出身の親吉田派の若手議員が多数を占めていた(吉田学校)。更に、吉田は鳩山の病気を口実に緒方竹虎を後継者にする事を決める。これをきっかけに自由党内は吉田支持派(官僚派中心)と鳩山支持派(党人派中心)に事実上分裂する。 1954年、鳩山は三木武吉・河野一郎・岸信介らとともに吉田に不満を持つ自由党内の同志や野党の改進党などの他の保守系政党と大同団結を図って日本民主党を結成した。一方、残った自由党内でも吉田の「ワンマン」と称される政治手法に対して国民の不満が高まっている事を感じた幹部たちは緒方を中心に吉田に退陣を勧告した。ここに至って吉田も内閣総辞職を決断して、自由党総裁を緒方に譲った。だが、国会での首班指名選挙では鳩山が緒方を破って第1次鳩山一郎内閣が成立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保守合同」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|