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保田 知宗(やすだ ともむね、生年不詳 - 1583年6月14日(天正11年4月24日)?)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。保田長宗(山城守)の子。繁宗の兄。子に佐久間安政室。紀伊八幡山城主。通称は佐介、左介。 保田氏は清和源氏の流れを組む安田氏を祖としているが、湯浅氏から分かれた一流とも言われている。後に忠宗の代において、紀伊在田郡保田荘の地頭に任じられた。知宗の祖父宗弘の代から畠山氏に属して戦功を立てる。 永禄5年(1562年)、教興寺の戦いにおいて湯川直光、津田算正らと共に畠山高政に属して戦うが三好長慶に敗れた。永禄11年(1568年)、高政が追放されると畠山昭高に仕え、佐久間盛次の子安政を婿養子に迎えた。畠山氏が没落すると織田信長に仕え、信長の家臣で安政の同族に当たる佐久間信盛の与力として従軍した。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて佐久間盛政(安政の兄)に属し、討死した〔「寛永諸家系図伝」によると賤ヶ岳の戦いで戦死したとされるが、一方で天正4年(1576年)の伊勢長島攻めで戦死したという信長の文書も存在し、彼の通称である「保田佐介」も以降登場しないため、賤ヶ岳の戦い以前に死去していた可能性もある。〕 。死後、安政は妻を離縁して紀伊を離れ、後北条氏を頼った。家督は弟の繁宗が継ぎ、徳川氏に仕えて旗本になったという。 == 脚注 == 〔 category:紀伊国の人物 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保田知宗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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