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保科正俊 : ミニ英和和英辞書
保科正俊[ほしな まさとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほ]
  1. (n,vs) guarantee 
: [か]
  1. (n,n-suf) department 2. section 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [じゅん]
 【名詞】 1. excellence 2. genius

保科正俊 : ウィキペディア日本語版
保科正俊[ほしな まさとし]
保科 正俊(ほしな まさとし、永正8年(1511年)〔阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P688では正俊の生年は永正6年(1509年)〕 - 文禄2年〔阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P688〕8月6日1593年9月1日))は、戦国時代武将保科正直内藤昌月〔昌月に関しては内藤昌豊の実子とする説もある。〕、保科正勝の父。通称は甚四郎〔。官職は弾正忠〔。
== 生涯 ==
父は保科正則で〔、信濃国高遠城を領していた国人であった。最初は武田信玄の信濃侵攻に抵抗したが、天文21年(1552年)頃に降伏してその家臣となった。武田氏の信濃先方衆(120騎持)の1人〔として活躍し、下伊那攻めや北信濃攻めに従軍した〔長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P11〕。特に槍に優れた使い手であったため、「戦国の三弾正」に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された〔。元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦では高遠城守備を命じられ、信玄から28か条の印判を与えられている〔。
天正10年(1582年)、織田信長甲州征伐の際には飯田城を守備した〔が、織田軍によって落城すると、正俊は水内郡の大日方氏を頼った(『赤羽記』)。本能寺の変で瓦解した旧武田遺領を巡って後北条氏上杉氏徳川氏の三者が対立すると(天正壬午の乱)、後北条氏に仕えた正直・昌月兄弟が高遠城を奪回したが、甲斐黒駒合戦で後北条氏が徳川氏に惨敗したのを見て、徳川方に転じた。
天正13年(1585年)11月、石川数正が家康の下から出奔すると、信濃松本の小笠原貞慶も呼応して高遠に攻め入ったが、正俊は鉾持除の戦いで小笠原軍に大勝した〔長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「保科正俊」の詳細全文を読む




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