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保科 正直(ほしな まさなお、天文11年(1542年〔阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P688〕)- 慶長6年9月29日〔(1601年10月24日))は、戦国時代の武将。信濃国衆。甲斐武田氏の家臣で先方衆。後に徳川家康の家臣となる。父は保科正俊〔。正室は久松俊勝の娘・多劫姫。武田家臣で上野箕輪城代内藤昌月の実兄。子に保科正光〔、保科正重、保科正貞、北条氏重、栄姫(黒田長政継室)、娘(安部信盛室)、貞松院(小出吉英室)、娘(加藤明成室)など。通称は甚四郎。官職は越前守、弾正忠〔。法名は天関透公建福寺〔。 == 生涯 == 父と共に甲斐武田氏に仕え、信濃国飯田方面を守備した〔。保科氏は諏訪郡の高遠氏家臣であったが、正俊の頃に甲斐武田家の直臣となった。武田譜代家老の内藤昌秀は実子がなく、正俊の子で正直の実弟にあたる千次郎(内藤昌月)が養子に迎えられている。 天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の甲州征伐に際しては飯田城に籠城し、2月14日には織田信忠による攻勢を受けて坂西織部亮、小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡している。高遠城では仁科盛信とともに籠城していたが城を退去し、実弟内藤昌月を頼って上野箕輪城へ逃れる。 本能寺の変以後の天正壬午の乱においては、昌月とともに後北条氏に帰属し〔、正直・昌月兄弟は小諸城から甲斐に向けて進軍する後北条軍の別働隊として高遠城を奪取することに成功した。その後は甲斐黒駒合戦において徳川家康が優勢に経つと、依田信蕃、木曾義昌ら他の信濃国衆と共に徳川方に転じた。 北信濃を除く武田遺領を家康が確保すると、2万5,000石を領した〔。天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが起きると、木曾義昌が豊臣秀吉に寝返ったため、家康は正直や諏訪頼忠、小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に派遣したが充分な戦果を上げられず、正直を抑えに残して撤退した〔長谷川『シリーズ藩物語、高遠藩』、P13〕。天正13年(1585年)には上杉景勝に通じた真田昌幸の拠る上田城攻め(第一次上田合戦)に従軍して活躍した〔。その後、家康の異父妹久松松平氏と縁戚となって勢力を伸ばした〔。 天正17年(1589年)に秀吉が京都大仏を造営するに当たり、家康の命令で富士山の木材伐採を努めた〔。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、家康の関東入部に伴って下総国多胡に1万石の領地を与えられた〔。天正19年(1591年)の九戸政実の乱鎮圧にも参加した〔。 慶長6年(1601年)9月29日、高遠城で死去した、享年60〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保科正直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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