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大昇充宏(おおのぼり みつひろ、1925年8月1日 - 2009年3月1日)は、長野県北佐久郡軽井沢町出身の元大相撲力士。本名は石田勇。春日山部屋(一時立浪部屋)所属。最高位は西前頭筆頭(1955年3月場所)。現役時代の体格は185cm、116kg。得意手は左四つ、寄り、外掛け。引退後は春日山部屋を経営して、後進の指導につくした。 == 来歴 == 1941年1月場所、春日山部屋から初土俵をふむ。藤川の四股名で昇進していったが、親方(元関脇・藤ノ川)が1946年限りで部屋を閉じ、幕下だった彼は立浪部屋に預けられることになった。1949年1月場所、信州の四股名で十両昇進、すぐに大昇と改め、1951年1月場所に新入幕を果たした。入幕2場所目の1951年5月場所は12勝3敗の好成績で生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞した。そのころは長身を利しての寄りが得意で、三役を期待する声もあったが、その後膝を痛めてからは、幕内中堅力士として終始してしまった。それでも、1955年1月場所初日、新横綱の栃錦を小手投げで破る殊勲の星をあげ、この場所前頭5枚目で栃錦戦の殊勲の星を含み、最終的に10勝5敗の好成績を挙げたが三役から平幕への陥落者が少なく、不運にも三役には僅かに届かず4枚番付を上げただけの西前頭筆頭が最高位となり、結局三役には届かなかった。逆に前場所、同地位で8勝7敗ながら翌場所、小結に昇進した(鏡里、栃錦を破っての敢闘賞受賞と言う点もあるのか)宮錦とは番付の運・不運と言え対照的である。 1955年、大関名寄岩が引退して春日山部屋を再興すると、移籍して春日山部屋所属となった。1957年1月場所限りで引退してからは、押尾川をはじめとしていくつもの名跡を借り株でしのぎながらすごし、1971年1月場所後、名寄岩の死去に伴い春日山部屋を継承し、やっと安定して後進の指導に力をつくした。育てた幕内力士は春日富士ひとりであったが、停年直前の1990年7月場所で春日富士が敢闘賞を受賞して、面目を保つことができた。 停年とともに力士たちを、自分の姪の婿に当たる旭富士が継承することとなる安治川部屋(当時の師匠は陸奥嵐)に預け、春日山部屋はいったん消滅したが、後に自分の弟子である春日富士によって再興された。なお、春日山の名跡は、自身が年寄名跡取得に苦労したこともあり、ほぼ無償に近い最低限の金額で春日富士に譲渡したと言われている。 2009年3月1日20時16分、急性肺炎の為に都内の病院で死去した〔 2010年2月7日リンク切れ確認〕。83歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大昇充宏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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