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信州遠山氏(しんしゅう とおやまし)は、中世から近世にかけて信濃国伊那郡(現:長野県飯田市上伊那郡南信濃村)の江儀遠山荘に勢力を持った氏族。江儀遠山氏(えぎ とおやまし)とも言われている。遠山景広に始まるとされる。 == 歴史 == 蔵人正直の子という遠山景広だが、その詳しい来歴は不詳。彼にいたる系譜も明らかではない。ただし信州遠山氏の先祖らしき名は記録に残っており、「遠山長九郎景盛墓碑」(静岡県佐久間町浦川)には文明年間に信州遠山新九郎政志の娘が柴田義勝に嫁いだとある〔遠山郷観光協会HP 〕。 景広は16世紀中頃に和田城を築城して江儀遠山荘支配したとみられる。天文22年(1553年)には甲斐の武田信玄に降った。以後は武田氏配下となり、永禄年間には遠州奥山氏を攻め、景広の子・景直が高根城(久頭合城)を落城させている(『遠江国風土記』による。ただし『熊谷家伝記』などでは当時景直は未出生)。奥山氏攻めは元亀3年(1572年)説もある。 その後、景広は天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐に際し、高遠城で篭城戦を戦った。しかし武田方は敗北し、景広も討死した。 一方で景広の子・景直は天正13年(1585年)の上田合戦に徳川家康方で参戦、これにより徳川方として3000石を領し、信州遠山氏の全盛期を演出した。以後も徳川方として行動、大坂の役にも参加した。 また景直が家康に謁見して食事を賜った際、景直は茶碗を隠しながら食事し、食後は茶碗の上に箸を置いた。この作法について家康が尋ねると、景直は貧しい領国のため貴賎無く麦・粟を常食としており、貴人との食事時は恥じて隠しながら食するのが習慣になっていると答えた。家康はこれを聞き1000石を加増し、茶碗の上に箸を置いた構図から「丸字に二つ引両」を考案し、遠山家の家紋とするように命じたという。 元和元年(1615年)景広死去。子の加兵衛景重が継いだ。しかし景重は病弱で子も無く、元和3年(1617年)に病死した。これにより景重養子・小平次と景重弟・景盛の間でお家騒動が起こってしまう。江戸幕府が介入して小平次が800石、景盛が500石とする沙汰が下りるも騒動は治まらず、結局信州遠山家は改易された。景盛は寛永10年(1633年)に遠江国浦川で病死している(「遠山長九郎景盛墓碑」)。 この改易を百姓一揆の結果だとする伝説が伝わっている。「遠山騒動」といい、厳しい年貢取立てなどの景直の圧政に対し、領民が幕府に直訴した結果取り潰されたという。そして信州遠山一族は直訴した領民に報復したため、逆に暴徒によって全滅したという(「伊那温知集」)。下栗の伝承では、元和年間に年貢取り立てが非常に厳しくなり、「二升の米をもって一升とする」といった悪政に窮した領民が、一揆によって、参勤交代帰りの遠山領主を大河原峠で襲って殺し、さらに和田城を襲って遠山家の家族、家臣を殺した、とされている〔『伊那民俗叢書. 第1輯』伊那民俗研究会編、信濃郷土出版社、昭和8-9 〕。 なお景広は上村合戦の時に明知遠山氏の一派が南信濃へ逃げ出した家系とする異説がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「信州遠山氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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