|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 信 : [まこと, しん] 1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion ・ 達 : [たち, たっし] 1. (n-suf) plural suffix ・ 軌道 : [きどう] 【名詞】 1. (1) orbit 2. (2) railroad track
飯坂東線(いいざかとうせん)は、かつて福島県福島市及び伊達町・保原町・梁川町(いずれも現在の伊達市)などにおいて運行されていた福島交通の軌道線(路面電車)である。本項では、その支線の保原線・梁川線・掛田線などについても述べる。前身の福島電気鉄道(信達軌道)と飯坂電車との合併後の路線名は全線が「飯坂東線」であった。 == 概要 == 1908年(明治41年)に雨宮敬次郎が設立した信達軌道により、軌間762mm・蒸気動力の軽便鉄道として福島 - 長岡 - 湯野村(後、湯野町)間が開業したことに始まる。同年内に長岡 - 保原を開業し、また雨宮傘下の事業者統合により大日本軌道の福島支社となった。保原 - 梁川、保原 - 掛田 - 川俣を延長したが、1917年(大正6年)に再び信達軌道として独立、つづいて桑折 - 保原を開業した。 1922年(大正11年)、松川付近の鎌田集落で蒸気機関車の煙突から出た火の粉が火元といわれる火災が発生〔蒸気軌道の場合特許状を補完する命令書には燃料に無煙炭または骸炭(コークス)が指定されていた。これは通常使用されている有煙炭に比べて高価でありこの条項は有名無実化されていた。しかしこの騒動により無煙炭または骸炭を使用せざるを得なくなり燃料費は高騰した。湯口徹『「へっつい」の系譜』ネコパブリッシング、2012年、38頁〕、村落46戸、非住居87棟を全焼。住民が線路に座り込んで抗議し、18日間運休した〔高井薫平『福島交通軌道線(上)』43頁。〕。この火災により多額の損害賠償が請求され、また以前から借入金もかかえていた会社は資金難に陥ってしまった。この時に取締役の吉田佐次郎〔任侠の人東北の次郎長といわれていた〕の要請をうけて取締役になったのが後に富山地方鉄道社長になった佐伯宗義である。佐伯は沿線火災予防に加えて、競合路線である福島飯坂電気軌道(後の飯坂電車、現在の福島交通飯坂線)による福島 - 飯坂の直通路線開業の対策から必然となっていた電化計画に着手した。まず社長が同郷の人である日本レール株式会社〔『日本全国諸会社役員録. 第35回(昭和2)』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕を訪ね協力を依頼した。ここで電化資金の調達に成功すると、さらに債権者である日本興業銀行の総裁を説得し資金の借入に成功した。電化工事については金沢電気軌道社長に協力を依頼し同社の電気技術主任下田与吉(後に福島交通社長)を譲受け工事にあたらせた。この電化・改軌工事は費用節約のため、鉄道第2聯隊の演習として実施された。このとき掛田 - 川俣と桑折 - 保原間は赤字路線であり廃止されることになったが日本興業銀行の助言によるものだという〔この廃止が実現できたのは吉田佐次郎の発揮した力によるものだったという〕〔佐伯宗義の寄稿『福島交通七十年の歩み』143頁〕。 1926年(大正15年)1月、社名を福島電気鉄道と改め、4月には先ず、福島駅前 - 長岡 - 湯野町間が完成している。同年12月までに対象全区間の電化・1067mm軌間への改軌の工事が完了し路面電車となった。 路線延長は31.5kmと長く軽便鉄道時代から各市街地や集落を連絡する機能を持っており、路面電車規格ではあったが福島市の市街電車であるのと同時にインターバン(都市間連絡電気鉄道)的な性格を合わせ持っていた。旅客運輸と共に貨物運輸営業も行なっており、福島駅前と各主要駅を貨物列車が結んで沿線の貨物輸送を担っていた。 同年10月に競合路線の飯坂電車を吸収合併して「飯坂西線」と改称〔社長の高岡唯一郎は東京在住で佐伯とは親交があった。佐伯宗義の寄稿『福島交通七十年の歩み』143頁〕。従前の福島電気軌道の路線は「飯坂東線」と改称した。1942年(昭和17年)12月に飯坂西線は福島駅に専用軌道で乗り入れを開始し、福島駅前通りから北に分岐していた従前の併用軌道は廃止されて飯坂東線と分離された〔高井薫平『福島交通軌道線(上)』26頁。〕。戦時中の企業統合で福島県中通り北部と浜通り北部の統合の中心となり、1943年(昭和18年)8月に周辺のバス会社を統合、福島電気鉄道グループの母体が完成した。 戦後は、設立時から関係があった福島県南交通を1961年(昭和36年)7月に合併して事業地域を拡大し、1962年(昭和37年)7月福島交通に社名変更。昭和30年代に経営に占める観光事業や路線バス事業の割合が大きくなり、軌道事業の存在感は徐々に薄くなった。モータリゼーションの進行により1967年(昭和42年)に先ず聖光学院前 - 湯野町間を営業廃止して軌道を撤去し、長岡分岐点 - 伊達駅前間の旅客運輸営業を廃止して貨物運輸営業専用に変更した。1971年(昭和46年)に全線の営業を廃止し、同社の路線バスに転換された〔黒木和人「福島交通」『鉄道ピクトリアル』No.636、199-200頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「福島交通飯坂東線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|