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修文館(しゅうぶんかん)は、神奈川県横浜市にあった洋学校である。 1866年(慶応2年)江戸幕府により役人の子弟に漢学を教授する場所として修文館が設立された。1868年(明治元年)に江戸幕府の崩壊と共に廃止されるが、神奈川県裁判所(県庁)で教育機関を設置することになり、11月に弁天にあった旧英学所に文学所を旧修文館に漢学科を再興した。1889年に北仲通6丁目の旧武術稽古所跡に移転合併し「皇、漢、洋」の三科を設け、修文館という名称で開催された。 1870年(明治3年)5月には皇、漢、洋の三部門に書法、数学の二科を加えた。この時、英学科が独立して野毛の旧修文館に移転する。その頃、アメリカ・オランダ改革派教会の宣教師S・R・ブラウンが英学校の教師に就任した。当初、入学者は神奈川県の政府役人や県内の住民に限っていたが、1871年(明治4年(に規則が改定され県外の生徒が入学した。 1871年(明治4年)1月に旧会津藩士井深梶之助が東京の土佐藩洋学塾を退学するときに、修文館で学僕を置く話を聞いて、修文館で学僕になった。 1870年頃横浜の事業家の高島嘉右衛門が伊勢山下に、藍謝堂(高島学校)を設立した。アメリカ合衆国長老教会のJ・H・バラ宣教師が英語を教えていた。バラは日本基督公会の牧会に専念するために、米国で中学校の教師をしていたJ・C・バラを招き、1872年(明治5年)6月にバラは来日し創業者の高島嘉右衛門と契約を結び、藍謝堂の教師になった。藍謝堂は一次700人近い生徒を擁した。 創業者の高島は1873年(明治6年)1月に神奈川県に寄付した。県立修文館と藍謝堂を合併して横浜市学校になった。そこで、S・R・ブラウンとJ・C・バラが同僚になった。 1873年3月に校舎が焼失したので、校舎を野毛山に移転し、市中共立修文館という名称になった。1876年(明治9年)ブラウンが修文館を辞任するに伴い、修文館の松平定敬と駒井重格、井深梶之助を含めた10数名により、山手211番地ブラウンの自宅でブラウン塾を開くことになった。すると、J・C・バラの塾から押川方義、熊野雄七、植村正久、藤生金六、ヘンリー・ルーミスの門下より山本秀煌、T・A・パーム門下より雨森信成が入塾し、横浜毎日新聞社の島田三郎や白石直治も合流した。 == 主な学生 == *小野梓 *佐藤昌介 *佐久間信恭 *宮部金吾 *都筑馨六 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「修文館」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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