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修道院改革 (しゅうどういんかいかく)とは、中世ヨーロッパにおける修道院改革運動で、特に10世紀から11世紀にかけてのクリュニー修道院での改革が著名である〔日本大百科全書(ニッポニカ)「クリュニー修道院改革運動」〕。修道院はシモニア(聖職売買)がはびこったり、司祭が結婚するなど腐敗していると改革者にみなされ、聖ベネディクトゥス会則の厳格な遵守によって清められた〔世界大百科事典「キリスト教」〕。 == 修道院改革運動 == 修道院改革運動は、11世紀初頭のロートリンゲンで広がりを見せた。このロートリンゲンの修道院改革に影響を与えたのがクリュニー修道院である。クリュニー修道院は909年ないし910年に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院として設立され、ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えた。ザリエル朝の皇帝ハインリヒ3世はクリュニーの修道精神に共感し、聖職売買(シモニア)を強く批判し、教会改革を求めた。しかし、後に息子のハインリヒ4世と改革の主導者であったグレゴリウス7世は問題となっていた聖職者の任免権を巡って叙任権闘争で争うことになる。 クリュニー精神の影響を受けたロートリンゲンの修道院は、徐々に修道士団の自立性を唱えるようになり、皇帝権からの自立を目指すようになった。そしてクリュニー精神に基づき、修道院活動を純化し汚れない本来の姿に戻ろうとする動きは、シモニアやニコライティズムに対する批判と軸を同じくした。 クリュニーとは異なる改革を展開した修道院もあり、シュヴァルツヴァルトのヒルサウ修道院改革は、農民階層への積極的な説教活動を通じて、農民の平信徒を助修士として受け入れるものであった。折しも中世ヨーロッパは大開墾時代を迎えており、農民に労働と祈りに勤めよと唱えるこの運動は領主たちの利益にも適い、南ドイツの領主たちはヒルサウ系の修道院の守護権(フォークタイ)を保持しつつ、これを積極的に支援した。貴族の寄進を受けて運動は爆発的に広がり、ヒルサウ系の修道院は150に上った。 教皇主導の教会改革が急進化するに及び、当初は協力的であったクリュニーは教皇庁と距離を置くようになっていった。たとえば改革派が唱える、明らかにドナトゥス派に通じる叙品論に対しては、クリュニーはペトルス・ダミアニとともにこれに反対した。またイスパニアでもカスティーリャ王国に影響を及ぼそうとする教皇の政策に対し、クリュニーはむしろアルフォンソ6世と結びつくことで、これに対抗した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「修道院改革」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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